作品著作集

著者追憶

糸井秀夫
(いといひでお)

化天の墓誌-

『化天(けてん)の墓誌』

ISBN978-4-434-07051-7

2005年11月発行 1,200円+税

発売:星雲社

 『化天の墓誌』を書き出す時は、その後、幾つもの「墓誌シリーズ」を上梓することなど、露ほども思い至らなかった。

 「書こう」と、意欲を湧かせたきっかけは、何と云っても「設楽が原、武田騎馬軍団に対する、信長の火縄銃隊」であり、従来喧伝されてきた「三段構えの銃撃説」への疑問や、批判であった。

 この前段として、今川義元を討ち死にさせた、桶狭間における信長軍の「迂回、奇襲説」への批判もあった。現在では、もう誰も唱えないが、以前は、参謀本部が広めた奇襲攻撃の手本として、これが巷に流布していた。史実を歪めた、こうした論にひとこと疑問を投げかけようとしたのが、執筆のきっかけであった。

 この時代、主として織田信長に依って、戦国の世が収束に向かっていた。しかしながら、信長という尾張の一豪族に過ぎなかった男に、朝廷の貴族や、幕府要人の所謂「正史」とするような文書や、日記、手紙類の史料があるはずも無いので、信長等の記録は、至って乏しい。記録の殆どは「我が陣営」の都合によって叙述される。『信長公記』などもそうしたものの一つで、つまり客観的に記された資料とは云えない。

 それがまた、『武功夜話』のような「偽書」の生まれる余地ともなる。

 こうしたことで、現在に至っても、この時代の史実は、検討されるべき点が多々あるようである。

つい最近でも、NHK歴史番組で、三方が原戦に向かう家康軍への信長援軍三千というのが従来唱えられた説だが、これは少なすぎる。どうも二万に近い信長勢が出たのではないか、という指摘がなされた。戦に加わった名門の武将で、手紙類にその辺りの記述が遺されているそうな。家康の軍勢は、八千とのことだから、併せれば武田三万とはほぼ互角の軍勢だった。

 武田軍三万に匹敵する勢力で向かって、踏みつぶされたのでは、家康の能力が、如何にも劣ると受け取られる。だから、武田勢より遙かに少ない兵力で刃向かって負けた、としておきたかったのだ、と。

 『化天の墓誌』執筆の頃を思い出すと、車で走り回った各地と、専ら運転に集中していた友のことなどが脳裏に蘇る。

 この友は、小中学を一緒に過ごしたが、戦争が激しくなって、母の故郷である福井県に疎開し、戦後再会した。

 この友の父親は、映画界の重鎮だった。姿三四郎など、初期の黒澤明監督映画のプロジューサーでもあった。だからこの友の壮年期には、父親の起こしたプロダクションで映画を作ったり、多くの男女俳優を世に出したりしていた。

 私の定年退職後、お互いに余暇を旅行など一緒にするようになった。この友に定年など無かったが、幾つかの理由で映画界から引退し、余暇を楽しんでいた。

 吉崎、一乗谷、朽木、姉川、そして長篠・・・・。古戦場や、史跡、若狭守護だった武田氏の墓を探して、琵琶湖湖北辺りを訪ねたりした。

 余呉湖(ヨゴノウミ)を舞台とした、平岩弓枝や水上勉の小説に感動したのもこの頃である。渡岸寺の国宝十一面観音像も、関連して思い起こされる。こうした地方遍歴では、戦時中を福井で過ごした友の道案内が、確実で効率的であり、大いに助けられた。車の運転が好きで、大型二種免許まで取得したこの友は、癌との闘病生活を数年繰り返して、逝った。

 一緒に走らせた土地の中でも、敦賀は印象に残る地た。それは、この一帯に日本史を彩る史跡が、幾つも遺されているからでもある。

 敦賀市を散策すると先ず気比神宮に出逢う。『古事記』には仲哀天皇時代、建内宿禰の気比大神との出会いを語る一節がある。敦賀の地名を『記』では「血浦と謂ひ、今は都奴賀(ツヌガ)と謂ふ」としている。

 市の北方、金ヶ崎には城址があって、新田義貞VS足利軍の戦闘を記した説明板がある。此処は更に、織田信長が近江浅井長政の背反に遭って、同盟者家康にも告げずに、命からがら逃げ出した地でもある。木下藤吉郎が決死の殿軍を引き受け、後世創作された、”出世太閤記”ではない実績として、史家も認める才能を発揮した。

 また、敦賀市内には、武田耕雲斎を始めとする、処刑された天狗党面々の墓地がある。更に敦賀の歴史資料館は、大和田銀行の建物を引き継いだとものとされる。著名な俳優大和田伸也(夫人五代路子)大和田獏(夫人岡江久美子)兄弟の祖父が創立した銀行である。以上、一連の散策は、古代→南北朝時代→戦国時代→幕末→明治・大正期などのエピソードを経巡る旅と、必然的になったのである。

 再び『化天の墓誌』叙述のムカシに立ち返って、感想を述べる。

 戦国大名、それも戦国後半期の経世、政治・・・を語るには、「検地」、「楽市」、「楽座」、「兵農分離」などの実情に、少しでも触れない訳にはいかない。

 これが、それぞれ難物の極みなのである。勿論、おおまかなことは、私でも少しは判る。唯、それらをリアルに描き出すとなると、かなりの困難さを伴う。

 化学の分野では、よく「定性分析」「定量分析」という、説明がされる。たとえば、酸性・アルカリ性などを見分けるだけならば、小学生でも簡単に出来る。しかし、ペーハー**と云うように、数字でその酸性度を見極めるには、かなり習熟した手続きや精密な器械・器具が必要だ。

 兵農分離の度合いや、実情を把握するには、この定量的観測がなされないと、正確な状況は掴み難い。

 安易に云うならば、武田の軍勢は後進性が強く、農繁期の長期動員は難しかったとされる。それでも、ひとつ一つの合戦に子細に見ていくと、かなり色々な季節に軍隊を動かしている。だから武田軍にあっても、ある程度の専門的武力集団は、持ち得たのだと云えよう。

 信玄麾下の諸軍勢でも、それぞれ実情は異なって、戦に出掛けて行く村人の実態があるだろう。勇んで戦闘に参加する農民も、苦しい家族の実情があって、出来たら辞退したい農民もいただろう。そういう具体的なところまでは、なかなか判らないのである。

 「検地」に就いても、ある程度は判るけれども、ホントの実情を掴むのは難しい。概ね、信長の時代にあっては、「差し出し」と称する自己申告制度が一般であったろうとされている。次第に領主の権限が強化されて、「太閤検地」では、かなりの精度で実測に基づく田畑の収穫量測定がされたと思える。それでも所謂「縄延び」という実際より過小評価された絵図面を用いたりもしている。

 近年、それも最近になって、不動産売買を実際に行うに当たって、科学的実測に依って始めて、従来云われていた面積より実は大きい土地だったと判明することもある。そのくらい、「検地」の実情も土地によっては、曖昧な場合もあるのだ。

 歴史の叙述というのは、こういう困難をひとつ一つ丁寧に乗り越えたり、多少いい加減でも、判っているかのような顔をして、書き進めたりする。だから一冊上梓すると、不満足な気分に陥って、次の一冊での不満解消に臨んだりする。

 『化天の墓誌』発行二〇〇五年から、十何年かをこうして書き続けてきたのだった。 (この項を終わる)

褒貶の墓誌

『褒貶(ほうへん)の墓誌』

ISBN978-4-434-11558-5

2008年02月発行 1,200円+税

発売:星雲社

 この稿では、ジョゼフ・フーシェの話から書き始めた。この類の事となると、私はすぐ鶴見祐輔著『ナポレオン』を思い出してしまう。

 小学生だった頃、自分のお小遣いで、子ども向けの澤田謙『プルターク英雄傳』を買って読んだ。アレキサンダー大王、シーザー、ハンニバル、ソクラテス、アルキメデスなど、何人かの英雄や学者の伝記を感動しながら読んだ。

 その後、プルタークはナポレオンの愛読書だったと知って、大人向けの『ナポレオン』を買って読んだのだった。中学校の低学年で、未だ戦火が内地には及んで無かった頃、と記憶する。

『ナポレオン』の中で、私が判らなかった事の一つに、フーシェの失脚挿話がある。ナポレオンが、セントヘレナに流され、復活したブルボン王朝の下、タレーランとフーシェは、閣僚として傘下にいた。ある夜会で、タレーランはムカシ逃亡したアメリカに就いて、思い出を語り、絶賛する。素晴らしい国で、赴任するには実に適した場所だと。そしてフーシェに向かって云うのだ。「いかがでしょうオトランド公爵。あなたはそういう位置に就いてみませんか?」

この意図を悟ったフーシェは、辞表を提出する。

 タレーランは、笑って云う。「今度という今度は、奴をひねり潰してやったよ。」

 少年の私には、こういうオトナの会話は、殆ど理解不能だったのだ。

 ツワイクに依れば、ギロチンにかけられた王と王妃の実娘アングレーム公爵夫人が「王様殺し」のフーシェを毛嫌いし、宮廷から追い出したのだとされる。でも、このタレーランの夜会での辣腕ぶりは、しっかり伝承されていて、有名な逸話として残っているのだ。

『褒貶の墓誌』では、忘れられない記憶の一つに「幕末有司」の一人、川路聖謨の健脚ぶりがある。江戸時代、壮健な男性旅人は一日40kmを標準として旅を続けたと云われる。

 川路の強行軍は、私が記述した彼の日記による旅程の場合、尾道〜江戸800km強を、15日で踏破している。ペリー来航という非常事態に際して、幕府からの特別指令に依り、一日50km強の旅程を15日間続けたのだった。強靱な体力・精神力を維持しなければ、このような歩行を実現し得ない。行程の中には、単に歩くだけでなく、政治的な情報収集、論議も含まれる。実に驚くべきことだと思う。

『褒貶の墓誌』ではもう一つ、時代の裁判の実例を幾編か述べた。折しも、私は近隣町内会・自治会を巻き込んだ、巨大マンション建築反対闘争の渦中にいて、あちこちの裁判例なども、真剣に目を通したりしていた。

 そうして、日本の裁判、特に行政訴訟という、国や自治体を相手に起こす訴訟の実例を、色々調べた。そして、日本の行政訴訟が、殆ど住民側の敗訴となる事実を知った。

 つまり国や自治体のかなり不当な言い分を、日本の裁判官は公然と飲み込み、擁護する。

「もんじゅ」の裁判もその典型的一例で、原告側は事故で停止している高速増殖炉もんじゅの安全性を問題にしているのに、動燃が「危険な箇所は修復する計画です」と述べるだけで、炉の再始動許可を有効と認めてしまうのだった。

 タマに住民側に有利な判決を出すと、その後その裁判官は左遷されたり、裁判をしない別の部署に移動させられたりする。・・・・そういうことも学んだ。刑事裁判ではなく、行政裁判こそ、一般人民が裁判に携わるべきだと強く思うようになった。

『褒貶の墓誌』は、私の気持ちとしては、田沼意次と松平定信の対立・葛藤がメインテーマであった。ページ数はそれほど多くはないが、「最も書きたい事」の一つがこれだったと云って良い。

 幕藩体制死守が定信の第一目標で、そのために統制や締め付けを怠らなかった。田沼は「あわよくば鎖国を止めても」商業の発展で、国を栄えさせることを理想とした。絵画や書籍刊行に、一切制限などしなかった。

 定信の老中筆頭期間は5年程でしかない。田沼は、二十数年も続けて権力の中枢にいた。それだけ安定政権を維持していたのだ。それに比べ、定信の政治は全く人気を待てず、失脚したのである。

 私は、小説でも田沼を悪者に仕立てる作品は好きでない。池波正太郎の『剣客商売』や平岩弓枝の『魚の棲む城』のように、田沼を優れた政治家として描いている作品が好きだ。

 

『褒貶の墓誌』では、後半に「改革とは何か」という章を置いて、総括的にいわゆる「改革」を論じている。

 私に云わせれば、松平定信の「寛政の改革」や、水野忠邦の「天保の改革」は改革の 名に値しない。コイズミ改革も同じく、唯庶民に我慢を強いるだけの政治としか云いようがない。それは行き詰まった政治体制を引き締め、権力を維持するために庶民を押さえ込むだけに過ぎない。

 たとえば、二宮尊徳が勧めた「改革」は、庶民に一定の我慢を要求するが、その先には、それなりの成果をもたらす。これなら、「改革」の意味があると云えよう。

「改革」というコトバを、権力者側から使うか、それとも庶民の立場から考えるかで、この語彙の意味は、全く違ってしまう。このことを述べたくて、章立ての一つとしたのである。今回、読み返してみて、改めて再認識したのだった。(この項終わる)

八紘の墓誌

『八紘(はっこう)の墓誌』

ISBN978-4-434-13216-2

2009年06月発行 1,200円+税

発売:星雲社

攪乱の墓誌

『攪乱(こうらん)の墓誌』

ISBN978-4-434-15916-9

2011年10月発行 1,200円+税

発売:星雲社

従属の墓誌

『従属(じゅうぞく)の墓誌』

ISBN978-4-434-19281-4

2014年05月発行 1,200円+税

発売:星雲社

相剋の墓誌

『相剋(そうこく)の墓誌』

ISBN978-4-434-20691-7

2015年06月発行 1,000円+税

発売:星雲社

野散の哲

『野散(のざん)の哲』

ISBN978-4-434-22006-7

2015年06月発行 1,200円+税

発売:星雲社

症原探幽

『症原探幽(しょうげんたんゆう)』

ISBN978-4-434-23282-4

2017年05月発行 1,200円+税

発売:星雲社

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