「本」の出版、ほんたうに身近に感じられるやうになりました。お知り合ひのなかにも出版を経験された方が幾人かは居られるのではないでせうか。戦後20年を過ぎる昭和40年頃までは出版は一部のひとたちのものでしたので、それから想へば隔世の感がします。
だれもが「こと」や「想ひ」を自分の外に向かって表せる、このことは過去に逆行させてはいけないとても大切なことと思ひます。
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「想ひ」は貽(おく)られ、貽(のこ)される

「本」の出版、ほんたうに身近に感じられるやうになりました。お知り合ひのなかにも出版を経験された方が幾人かは居られるのではないでせうか。戦後20年を過ぎる昭和40年頃までは出版は一部のひとたちのものでしたので、それから想へば隔世の感がします。
だれもが「こと」や「想ひ」を自分の外に向かって表せる、このことは過去に逆行させてはいけないとても大切なことと思ひます。
個人・自主出版が担ふものはこれからもますます大きくなるでせうし、自費・自主出版だからこそそれを押し進める力を持ってゐると思ひます。出版物は筆者がイメージされる以上に広がりを持つものだと、その都度教へられて来ました。
いま、出版資料を取り寄せてみようかと思はれた時点で、筆者は出版工程の半ばを過ぎたところに立たれてゐます。不安よりかは期待のなかかもしれません。
以下、ご参考に寄与するところがあれば幸甚です。
杉並けやき出版/小川 剛
自費出版編集者フォーラムの機関紙「自費出版ジャーナル」89号に送稿したものです。

三年前、座間駅で筆者と会った。座間は数十年ぶりだった。米軍キャンプの座間、だから反軍活動かなと勝手に思ふ。だが書かうとしてゐるのはどうやら古代の現実の話らしい。
彼女は地域の子どもたちに昔ばなしを語るうち座間周辺の伝承のルーツを突き止めたくなったと言ふ。「折口信夫や吉野裕子の世界ですね」と問ふと文章を綴るばかりに、「伝へたいことがあるんです」と話しはじめた。
それから二年半余り私は度々座間の地を訪ねることになった。自己や地域を発見することは、他者や世界を変へる力になる、とはやや仏教的だがその思ひが私から消えることはなかった。
本書は前編を発掘した昔ばなしで始め、中・後編は四〇年フィールド活動と研究が紹介されてゐる。
彼女はかつて代用教員や図書館員でもあり、文献資料に接する機会が多かったかもしれない。しかし発掘したものを独学で解析するといふのは並大抵のことではなかったと思ふ。そんな頃、古俗研究者の吉野裕子氏や古代文字の川崎真治氏と巡り会ふ。御同朋、御同行である。この二人の在野の先学との交流が彼女をさらに豊かな研究者 にした。
座間とは、いつ頃どんな人々がどんな祈りをこめて呼んだ地名なのだらう。そして彼女が座間で発見した石の線刻文字の意味は?
それは、本書のモチーフである「向き合ふ」姿であり、平和への祈りが込められたもので、語り口の優しさとなって貫かれてゐる。
小川 剛

「すぎなみ文化通信」へ掲載された投稿文です。

私たちを産み育てたものとか先祖には感謝したいですね。年を重ねるにつれさういふ思ひはつのります。
この春彼岸にもいわき遠野の無住の実家に帰ってきました。山並みの間を過ぎるごと、田も畑もそこで一万年も営々と生活をしてきた人々もすべて私たちの先祖に違ひないと思はせられます。それに、昔はどんなことばでどんな生活があったのだらう、そんな関心をもってゐるものだから、原日本語(?)を探求してゐる人たちには併せて感謝したい気持ちです。そんなことから、私たちを形づくったひとびとの後裔がいまなほ迫害の憂き目にあってゐるのを見るのはゐた堪れない思ひもしてゐます。
新聞の片隅ベタ記事に、スリランカ(旧セイロン)では人口数パーセントのタミル人が虐殺されてゐるとありました。南インドにくらしてゐたのが次第に追ひ払はれてスリランカに逃れてきたのでせうに。
実はこの、「タミル」といふ語、これを知ったのはさう古いことでもなく、たしか出版の仕事に挫折した二十五〜六年前でした。今は故き日本語学者の大野晋さんが、タミル語が日本語の祖型ではないかとの研究をされてゐたのでした。縄文のむかし、彼らは米とことばをもってこの日本にやって来た。それが、生活語彙だけでなく助詞、文法など今の日本語に生きてゐるらしいのです。どうも、私たちのことばのみならず生活感性を形どった原風土はその辺に在るやうです。
その頃は記述文字をもたないものですから数千年のいのちと生活の受け渡しが営々と繋がれてきたわけです。その重みは多分私たちの体と心に住みついてゐてゐる、それだけぢゃなく私たちのいのちを予祝する土地々々の名にも彼らの希ひと祈りが込められゐると思はれます。
では、それ以前すでにこの日本に先住者たちが住んでゐた、そしてその彼らは文字をもってゐたと聞けば、それは信じがたいと言はれるのは必定ですね。
が、その研究に没頭して先ごろ亡くなられた在野の学者がゐました。川崎真治さん、この方、杉並高円寺南に住んでました。大野晋さんとも交友があり、あのシュメールから来た文字が石に刻まれてゐるのを発見し、読み解いたのでした。平和な生活への祈りのことばです。彼の著作はネットでも購読できますのでお勧めします。
ところで、地名「座間」といふ語から何を思ひ浮かべるでせう? 殆どの方は、「米軍座間キャンプ」かも知れません。戦前からの軍事施設と結びついた「座間」ですから、そんなものがなかった「座間」にも悠久な生活と小宇宙があったと想像するのには歴史を振り返る努力が要ります。
「座間」、この座間に住んで地域の子どもたちに、発掘した「座間のむかし話」を四〇年語りつづけてゐる方がゐます。また発掘はそれに止まらず、先の川崎真治さんとともに座間で石に刻まれた文字を読み解かれました。
この経緯、思ひと昔ばなしを収録した本があります。『座間ばあちゃんの遠めがね』です。私たちの杉並でもその石が見つかるに違ひありません。その手ほどの書としてもきっと役立つものと思ひます。
小川 剛

自費出版編集者フォーラム誌に送稿したものです。(2010/2)

昨年末、知人が妻の看病疲れから娘を殺し自殺した。少し前、彼の寄越した手紙に、「自己責任といふ軌範に囚はれてゐたのが、書くことで枠がとれ、新しい物語が自分のなかに生まれた」と、あった。
ものを書くことが現実にも生きる寄る辺をつくる、とは私もさう思ふ。パラダイム回天をモチーフにした大きな物語も確かに相剋の解決に役立つはずである。
私には一冊の本との出会ひが今なほ役だってゐる。丸谷才一編『国語改革を批判する』(昭和58、中央公論社)だが、これが私に自費出版の仕事を続けさせた気がする。
自由な精神活動を支へる日本語表記は理路整然な歴史的かなづかひがいいと言ふものだ。しかしそれ以上に私にとってありがたかったのは、権力統制によって常識化した現代かなづかひのもつ精神的危ふさを指摘した文人たちの闘ひがあったと知ったことだった。
私にはこの提起を後にひきつがれるやうにすればいいだけのこと、それでパラダイムの回天に役立つならうれしいものである。
小川 剛

PPマガジン21号に掲載されました。

まだ私は日本海を見たことがないと言ふと、ぢや陰とか裏(の事情)は苦手なんですね、と返つてくるのでその時はウラ(心)にはさう暗くはないと思ひますがと応へたりする。負け惜しみこの上ないけど、気軽に巡り歩けないのも、それはそれでそれほど捨てたものでもないと自慰するのが習ひ性となつてゐる。古代と現在のひとと風土を無碍に重ねてみたりとかする。
書店で歴史地図を眺めてゐたら、越のクニから見た京、奈良への街道があつた。目で辿ると永いこと忘れてゐたかつての私たちがクニを追われて雑踏の京に上る往古の民と重なつた。彼らは私のよき伴侶となる。
すると身体に先人の跡を残す現実の畸人が現れる。彼らに会ひたくなる。
「常」にプラスされた「余り」の情やモノ・コトを持つものが畸だとするなら彼ら畸人は私にいつぱい贈りモノを与えてくれさうだ。なので彼らの自慢のモノを呉れるやう頼んでみる。ドンと送られてくる。それを齢のせいで淡白になつた私には消化しきれないほどだからとき折りかつての著者に送つたりする。
こんな古風なことは流行らないかもしれない。が、つい先だつて、時期も距離も離れた二人の畸人著者にそれぞれの本を送つてみた。独孤自存の御二方だが、落日の炎をもらへたことであらたに伝へたいことが見つかつた、と一報があつた。楽しみの方便が与へられたと思つた。そして、落日のエネルギー、それは西方浄土のものではなく欣求現生(世)のもの、格闘を通して喜びに至れ、と言つた人びとの列に私もできれば加はつてみたいと思つた。
「…宍道湖に於て見るべきものはただ一つしかない。莊麗なる落日のけしきである。…雲はあかあかと燃え、日輪は大きく隈もなくかがやき、太いするどい光の束をはなつて、やがて薄墨をながしかける空のかなたに、烈火を吹きあげ、炎のままに水に沈んで行く。おどろくべき太陽のエネルギーである。それが水に沈むまでの時間を、ひとは立ちながらに堪へなくてはならない。…日が沈むと、工匠(如泥)は家にかへる。…落日からもちかへつたエネルギーは仕事に於て照つて出るだらう。…」(石川淳「小林如泥」『諸國畸人傳』)
数年前の冬の日だつたやうに思ふ。宍道湖の畔に立ちながらに堪へたあの「如泥」と見紛ふ方が突然現れた。幾冊かの本を包み飛行機でやつて来た。私の前に自著とノートに書かれた原稿が置かれた。大手出版社発行の上製本だつた。孫たちにやがて読んでもらひたいものだから、一〇冊ほど作り直して欲しいと言はれた。経費は既に前著で消尽してゐる。躊躇した。二人ともただ、沈黙。怖づ怖づ私は「原稿リライト・製版するまでが精一杯のところです」と応へた。彼はやうやく微笑んでくれた。さうして帰り際、彼は「西谷能雄」の名前を挙げて、私にご存知かと問ふた。
知るも何もない、私を今の仕事に引っ張り込んだその人だ。この「如泥」氏、かつて出版を志されたひとなのだらうか。未来社の経営・出版・編集人の西谷さんは、「思ひは高く、くらしは低く」とワーズワースを引き、最後の著書で自らをさう総括した、そんな人なのだが、ひとしきり「編集者の限界」を語つて彼「如泥」氏はやうやく落日のクニに帰つた。「出版とは何か」が私に残され、リライトの約束は一年後に果たされた。
マグマを内発しつづける人は在野にあふれてゐると私は実感してゐる。そしてその作品を発掘できるのは、多分自費出版の得意とする仕事だ。彼西谷さんにはその発掘への言及はなかつたやうに思ふが、出版人・編集者を考察したものには宝ものがいつぱい蔵されてゐる。かの落日のクニの彼は、出版経営理念が先づあつてこその編集者ではないかと言つた西谷さんの想ひを生かして欲しい、と願つたに違ひない。
今日(七月一四日)の毎日新聞の記事に目が止まつた。 大相撲元横綱の貴乃花親方が、講談社らに賠償を求めた訴訟の判決で、(地裁)裁判長は、「名誉棄損などの権利侵害を防止する態勢が整備されていない」と社長個人の賠償責任も認定。講談社側は「経営と編集が分離している」と社長の責任を否定——とある。
このなかで「経営と編集が分離している」との文言がどうにも気になる。私の理解を超えてゐるらしい。西谷氏が健在ならば一笑か、激怒かと思つてみる。
東京は盆会の最中だ。西谷能雄そのひとに私を引き合はせたのは、若き五木寛之さんをよく知るクラシック喫茶のマスターら中野駅北口の三畸人と僧ひとりだつた。かれらもまた間違ひなく「落日」の炎に炙られたやうな人だが、四〇年前のことでもあるし、今はその畸人三プラス一を合掌してとほり過ぎよう。
小川 剛

この春先のこと、ひよんなことからある雑誌に左掲の広告を載せてみた。

●おすすめしたい一、二冊
昨年の12月24日の「引用句辞典」(毎日新聞)に、鹿島茂さんの「言葉の簡体化が導いた『心の闇』の大量発生」といふ記事が載りました。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』でも警鐘を鳴らしてゐるやうに言葉は単純化すればいいといふ「記号」だけであつてはいけないのですね。
わたくしの仕事を支へつづけたその一書は、1983年に出た丸谷才一編「国語改革を批判する」『日本語の世界16』(中央公論)でした。現在は中公文庫で読めるやうになつてゐます。なぜ、「歴史的かなづかひ」なのかが展開されてゐます。もう一つは、「ことばと心の本然的働き」を知る上でとても参考になつたと、贈つて喜ばれてゐるものです。中沢新一『カイエ・ソバージュ(野性の思考)㈵〜㈸巻』(講談社メチエ)。パラダイム回天の一書です。
さて、〈自費出版やつてます〉にしては何かキャッチコピーが足りない、として最近復た使ひはじめた「想ひは貽(おく)られ貽(のこ)される。」を、この行文の肩に載せた。
今となつては、こんな意見広告紛ひのもの、料金を払ひ、よくまあ出したものだと呆れるが、予想どほり反応は皆無だつた。これには編集見習ひで来てゐるご婦人も、いいんぢやないですかと悟り顔だ。仕方ない、結果がものを言つてゐるのだから。
その雑誌の賞味期限もとほに了へたころ、名前も告げぬひとりから問ひ合はせがあつた。
「かういふ広告、効果あるんですか?」
第一声がこれだ、余計なお世話だと切り返す間もなく声がひびく。
「なのに、何ゆゑに? それに、貽られ貽されるとは、どういふ意味です?」
電話は訥々として実直さう、ながら矢継ぎ早やだ。あるいは同業者かと思ひ聞けば文学を研究してゐるといふ。ちよつと引きずられてもいいかな、の気になる。
しかし電話でのそれもはじめての話相手に、わたしの無念を見せるのは悔しくもある。広告のマイナス成果や掲載理由など教へるつもりはない。でもまあ、『漢語林』や学研『漢和大字典』にも書いてあることだし「貽(イ)」を使つたことについてなら話せる気になり、
「贈ることと遺(のこ)すこととは同じやうな意味で働いてゐたんでせう、わたしたちのとほい先祖の時代には、きつと…。…さういふ相互主観性ある死生観や世界観はいま先人からの贈りものとして考へてみるのは大事だと思ひます」と気負つたもの言ひとなつた。
「小川さんは復古主義者? 旧仮名をつかつてゐますが」
これは、話すと長くなりさうだ。しかし日本語表記で言へば保守がいい、〈新〉とか〈現代〉とか〈イノベーション〉とか名前に冠すれば中身もいいものだといふものでもなからう、と歴史的な仮名づかひをわざわざ〈旧〉仮名などと命称させた狙いなど『国語改革を批判する』に乗つかつたまま一方的に話した。しはしたが、わたしの話に、煽られてたまるかと相づちもない。電話から高級ライターの音がする。
「しかしさうは言つても小川さん、新聞も広辞苑もさうだし学校の教科書も一般の人たちだつてさうなんですよ、現代かなづかひに誰も何の不都合も感じてゐないのだから今さらとりたてて昔に戻ることなんかないでせう。もつと急いでやらなければならないことは外にいつぱいあるんぢゃないですか」いいなあ、かういふ善男善女の素朴さ。けど優しさが先立つて問題が意識に上らない何とも平和な人生、歩んで来たんですね、わたしもでしたが。さう言ひたいたいのを呑み込みながら、教育文筆に関係した先生方からとりわけ多く聞かされるのには、何か面白い背景理由がありさうだ。現代の「公」人にはそこに問題を発掘してみる快感もあらうに勿体ない。多くの人はたぶん国家なんか想像の産物と思うふだけでも罪悪感をもつのだらうし、ことばの表記でも公共性ある新聞などは間違ふはずがないし、「改革」なる言辞にも少なくともいいものがあるにちがひないと受け容れてゐるのかもしれない。いやいや、まさかそんなこともあるまい、と信じたい。
国語「改革」なるものも凡そあらゆる観点からことばと精神の歴史を展望して検討に検討を重ねたうへでのことだつたはず、それにもし問題があつたのであれば新聞や学者・文化人が黙してゐたはずはなからう。だれしも、こんなこと当然と考へてゐた。だつて、ことばやその表記は、わたしにさへ分かる精神と思想の問題だ、だから相当な深い論議がなされた、さう思つてゐた。だが、その期待は見事に裏切られ、以来わたしたちはその流れに放りだされたままにある。
その決論に至る杜撰さは同書に詳しいが、奇しくもわたしは丁度胃袋を無くした年にこの書に出会つたものだけに、その論究書は自分の再生を予祝するもののやうだつた。わたし自身蟷螂の斧にさへ程遠いことはよく理解してゐるが、その一端なりとも担つてみたくなつた。「もし僧ありて、ひとりの人を教へて菩薩戒を受けしめたる功徳は、八万四千の塔を起てたるには増されり」(今昔)と言ふ密やかに抱きつづけてきた願望も捨てなくて済むかもしれない。
と言つて、その思いひの丈にくらべれば今なほわたしのやつてゐることは些細に過ぎる。 たとへば、「一つずつ…」は「一つづつ…」にしませう、と原稿に朱を入れる。「つ」は「箇、個」で数詞に付ける語、「づつ」はこの「つ」を重ねて同じ分量・割合・程度を表すやうだから根がはつきりしてゐて平安時代まで遡ることができると言ふものだから。ついでに、わたしのふる里は福島県の石城(いはき)郡で往時市町村合併によつて、いわ(は)き市になつたが、その中に「泉」といふ町がある。これは「出(い)づ水(み)」だから「いずみ」と表記しては思考が混乱する。「出ず(打消)水」では「出ない水」となり、寿ぐ地名から言つても相応しくない。「いづみ」の方がすつきり見通せる。
「ところで小川さん、辞典は何を?」
「最初にひくのは、いつ頃からか『大辞林』ですが…」
「さうですか…」
と長い電話は終つた。私は私を貽(おく)つてみた。だが私は貽(のこ)つたか、などと想つてゐたら相手の名前を聞くのも忘れてゐたのでした。
小川 剛

コラム

たしかリュックを背負つた父と二人だつた。山あひを走る汽車の窓が急に明るく拓けて町に着いた。郡山といふところだつた。長い坂道を歩かされた気がする。そしてどこまでも続くレンガの塀の土色が鈍く燃えてゐた。歩きながら父が教へてくれたのだらう。そこは脳病院で、永く戦前から収容されてゐる叔父に会ひに来たのだつた。昭和二八、九年、わたしの小学入学の頃だつた。前年には喘息の祖父が他界し、母は一〇〇〇グラムで産んだひとり娘の危機をのり越えたところだつた。
父は三十代の半ば過ぎですでに職人として弟子もあり、一家を支へた。
貧しい職人の家の長男に生まれ、上級学校を諦めざるを得ず、祖父とはちがうふ分野で技を磨いた。が、それとてまだ満たされぬものがあつたやうだ。数年前のこと、父の遺品の中の小学校時の通信簿を見たら全 「甲」であつた。やはり、どんなにか旧制中学に行きたかつたか知れない。それだけに、今も碑に伝はる先祖の事跡と家訓を励ましとしたのだらう。寡黙の父だが、小学時の同級の地主の息子と八幡社の幟の大字を書いて奉納したこととか、貼り繋いだ板に般若心経を写経してお寺に供へたこととか漢詩の話をしてくれたことがある。九〇歳を過ぎて亡くなるまで定期文芸誌を読みつづけてゐたこの父はおそらく窮屈な村からの叶はぬ脱出の代りに文学から自分の境遇に何か潤ひあるものを取込みたかつたのかと思ふ。
この父に弟がゐた。私はそれを脳病院に連れてゆかれるまで知らなかつた。證覚と言ふこの叔父は小学校のとき俳号を素心と名称つたといふ。短詩、詞章、少々の中国語などをものし、人品卑しからざるものがあるこの弟を弟ながら敬愛してゐた、と父は述懐した。とはいへこの叔父の遺品は何も残されてゐない。焚いて灰供養しなければならない事情があつたのだつた。
わたしは叔父の写真を一度見た記憶がある。出征姿の彼は奥深い瞳をもつ役者の加藤剛の滋味を醸してゐて、生涯たつた一枚のその写真を親兄弟に残して中国大陸に狩りだされた。そしてそこで彼は、永い音信不通のまま狂人となり、狂人のまま敗戦の前の年、憲兵の監視付きで郡山の「脳」病院に送られて来た。まだ家族に知らせるわけにはいかない、とされて。
弟よ、お前、精神異常者だつて!?
それにしてもあの弟の心と精神とを異常にさせたものは何だつたのだ!? 数年後はじめて父が知つたとき、弟に関はるすべてを引き受けなければならない人生の新たな重荷を背負ふ決心とはどんなだつたらう。
大陸で、どんな組織のどんな人間によるどんな任務の遂行を命じられたのか、叔父の毎日はどんな生活で、何が起こつたといふのか、誰も何の説明もしない。ただ近年になつて怖づ怖づとしたものであるが、一般証言や告白から当時の叔父たちの様子を推しはかるばかりである。
「郷里に残る親兄弟らに不遇の生活をさせたくなければどんな命令にでも従つた」
と帰還兵は一様に語り、それ以上に何百万もの心の葛藤もつひに声にしようとはしてゐない。まつたく切ないが、そのひとり、叔父も郷里の大切なものを守るために防波堤になつた。
だが、その郷里、今わたしが想ふ郷里と叔父たちにとつての郷里とは同じものか。
そこでは当時、人間、生活、ふたつながらのこの貧困の上にさらに胡座をかき、人のいのちを恣いままに利用した者ら、地主・在郷軍人・小官吏らの忌まはしい生態が住民を悉く支配した。支配されたひとびとは屈従があたりまへの現実を小さいときから味ははされて生きなければならなかつた。例へば、ある地方の官吏をしてゐた古老との話。徴兵の名簿作成に際して誰を挙げるか、ボスたちの薄暗いやりとりがあつた、と。声を震はせた彼の姿はいまも鮮明にわたしの耳底にあるが、それとは知らず、「守るため」の大義のもと兵役に赴いたひとや残されたひとびとの無念を思はずにゐられない。
その後叔父が郡山の町からどのやうにして我が家に帰つたのか記憶にない。父もわたしを連れて行つた当時のことを死ぬまで話さうとはしなかつた。実弟がそんなに以前に脳病院に搬送されてきたことすら知らずにゐた無力な自分を呪はずにゐたとは思へない。だけど、「俺は何も見てゐない、覚へてゐない、俺は恥づべき裏切りもの」と数年も教導を強ひられた生ける屍の弟に、兄には何ができたのだらう。警察の監視つきで家に帰つて来た弟をただ優しく迎へ入れるだけだつたに違ひない。
私の家には同じ棟続きにぶ厚い壁で仕切られた牢があつた。食事の差し入れ口は狭く直接叔父の顔を見ることはなかつたが、ときどき親に聞こえぬやう、小さな 声でふた言三こと話すことはあつた。わたしが脳病院に行つたのを覚へてゐたのだらう。渉、昨日の新聞をくれないか、と言はれて新聞を々差し入れた。静かな声だが訛りもなく、掠れてもゐない。が、なぜか話すことが躊躇はれた。わたしは小学校の二、三年生になつてゐた。
父の読み終へた文芸誌は叔父に渡す。親に内緒で紙と鉛筆も請はれるままに差し入れる。音を低めたラジオの声が聞える。ある日、多分わたしの通信簿の話をしたのかも知れない。音楽の成績はひどいものだとでも言つたのだらう、ふふふと気持ちよく笑はれた。
わたしはこの叔父が精神異常者だとは思つてゐなかつた気がする。親からはさう言はれてゐたが、普通の、だが重い病気だぐらひにしか感じてゐなかつた。あるいは父母さへも、病院、警察や村のボスの回し者が言ふほど弟が異常者などとは思へなかつたのではなからうか。それに、脳病院で完全に廃人にされて戻らされた弟と接してゐても、父はまだそれが強制によってつくらされたものだつたなどとは知ることもなかつたし、弟は昔と変はらず穏和さをもつてゐた。ただの一度も大声を上げたのを聞いたことがない。気になることといへば四〇歳近い男があまりに従順すぎることぐらひだつたらう。
生物は極限の痛み苦しみを受けたとき、それを感じさせなくするものを脳が作るといふ。一期の末にだらう。だが、それを常態化できる人間をわたしは知らない。あるとすれば悟りきつた人といふに等しい。心をブラックホールのやうに空化して、自分を責め苦しめたあらゆる事・言を呑み込ましてしまふ。呑み込んだものは無にもならず、ふたたびこの世に現れることもない。透明で気高い人間には必ずこの相貌があるのだが、叔父はたしかにこの相貌をしてゐたと今のわたしには思へるのだ。むろん、当時こんなふうに叔父を見ようとした人なぞ誰もゐない。精神異常者としたのみだつた。ただ父と母が、接するにつれ大悲悟入の入り口に立つてゐる弟に気づかされたかも知れない。
私の家にはその後、かつての地主で村のボスや目と鼻先に住む警察がお茶呑みといふ口実でたびたびやつて来た。母は、その山村に溶け込まうと旧家生まれの祖母に倣つて実家の鎧甲の一式を八幡社に贈供して家族の平安を祈つた。わが家はたしかに村の構成員だと示したのだらう。いや、それよりも母は根つからの恬淡磊落で人がいつぱい来るのが何よりも好きだった。彼女の口癖は、「馬には乗つてみよ、人には添ふてみよ」だ。わたしの初恋は六年生のときで、母が連れて来て介抱した二つ年上の薫といふ生徒だつた。彼女は原爆後遺症のためか、いつも貧血でガリガリだつたが、母は薫を可愛いといつてわたしの許嫁のやうに接した。おかげで、裕福にはほど遠かつたけれど人とはいいものだと素直に思へた。
三河の漫才夫婦、富山の薬屋は毎年やつて来て泊まる。むろん宿泊はタダである。酒呑みが畦道でひつくり返つてゐるのが運ばれる。学校の先生も酔つぱらつて教育論をぶつてゆく。強制労働で連れて来られた朝鮮人の親子とも憚ることなく付き合ふ。うちよりさらに貧乏な禅寺とは親戚以上に行き来する。
わたしはあまりに自分ら子どもがうつちやつて置かれるのによく文句をいつた。そして人がよく来るのは母のその性向のためだとしてゐた。がその実、それほど単純でもなく、私の家族をその眼でよーく見てほしいと、村の偏見冷視に対する精一杯のもの言ひ、パフォーマンスだつたのではないだらうか。そして何よりもひつそりとさせられてゐる義弟に対する贈りものとしたのではあるまいか。たしかに叔父はどんなにか慰められたことかと思ふ。
やがてこの警察とも終生の付き合ひになってゆく。それは父の死ぬまでつゞいた。
叔父はこんななかで日々を生きた。そして何も話さず、何も残さず、現今上天皇の結婚の翌年、逝つた。私の小学校六年のときだつた。今に思へば叔父が貽つてくれたものには、このわたしにとつて気高くも測り知れないものがある。
しかしこのままでは終らなかつた。後日、この叔父の戦友が語るところを知ることになる。その戦友も引き上げ後数年して病死するのだが、彼の父親が寄越してくれた手紙に、私の父は悔やしい、悔やしいと泣いたのを覚えてゐる。職人の私の父は怒りこそすれ泣いたのは私ははじめて見た。中国の人びとをモルモット様に殺した責任、延いてはその事実さへなかつたものにしようと部下を精神異常者にしてしまふリンチの数々を思ふとき、あまりのひと世の無明(むみょう)さに胴震ひを抑へきれない。
もし生きたいのなら狂人となつて生きてみろ。
自他から迫るこの声を叔父は受け入れた。この世のこと、全て 封じ込めなければならなかつた弟と、この非条理な現実に家族を支へ続けねばならなかつた兄と、同じ敷地に隔てられた壁を挟んで、五、六年間、声もなく語り合つたもの、いまわたしは漏らさず聴き取つてゆかねばならない。
十河 渉

2009/7/30

先だつて日本語学者の大野晋さんが亡くなられました。『岩波古語辞典』の編纂などでご存知かも。
大野晋さんにはじめて感謝したのは、「日本語の成立」『日本語の世界1』(中央公論社 昭和55年)と、丸谷才一編「国語改革を批判する」『日本語の世界 16』(中央公論社 昭和58年)の中での「国語改革の歴史」でした。同書、丸谷才一さんの「言葉と文字と精神と」は今もわたくしに強く息づいてゐます。『国語改革を批判する』は現在中公文庫で手に入ります。わたくも、こころざしある友人100人ほどに今まで贈呈してきました。読まれてみてはいかがでせう。
『上代語構文論』『萬葉集構文論』など書かれてゐる佐々木隆さんは他書のなかで、大野さんのきつい励ましを受けたことを記してゐますが、著述の出版にも衰へない情熱を燃やし続けた人なのでせう。
日本語のルーツがタミル語にあると発見されたのは大野さんでした。縄文晩期のあの時代タミル語を話す人々がこの日本に「米」を持ち込んで住んだのでした。当時の生活と祈りのことばが今に繋げられて来てゐる、その営々としたさまに思ひを到らせると、今とこれからに、ある責任を感じてしまひます。
ぢゃー、それ以前の縄文人はどんな言語を話していたのでせう。古代タミル語を受け入れたそのときの音韻体系がオセアニアのオーストロネシア語の一つだつたので、音節はすべて母音終始、捲舌音やr・l の区別もないといふ体系を持つてゐた(「日本語の成立」)やうです。
ところで、この頃「文字」は? 中国で漢字が発明される以前の頃ですので、当然「文字」はありません。無文字時代と呼ばれます。
と、今までは見られてゐました。
ところが、この日本にも文字がやつて来てゐたのでした。それを読み解き発見された方がゐます。同じ杉並区の方で、川崎真治さんといふ在野の学者です。川崎真治さんも大野晋さんのところへ研究に行かれたやうですが、昨年亡くなられました。古市静子さん(後述)の話によれば、川崎さんの追悼文はどの新聞にも掲載されなかつたやうです。
実はこの川崎さんといふ研究者を私は存知あげてゐませんでしたが、昨年知己になる、古市静子さんに教へられました。川崎さんの著書のなかに彼女は写真入りで登場しますので古い師弟関係だつたのでせう。川崎さんの本は、半年かけて5冊ほど読みました。ことばが人間の移動と生活と共にあると改めて気付かされます。古代シュメール語が縄文の日本で見つかつたばかりでなく、その文字の解読がなされてゐます。解読されたものを読むと、当時の人の祈りと人生が想像できさうです。
古市静子さんは、あの「大山」の東、神奈川県座間市に住みついてから、座間の「むかし話」を蒐集し、子どもたちに語ることを続けてをられます。近く「座間むかし話(仮題)」を出版する予定で今執筆にかかつてゐるところです。石に刻み込まれた「文字」を読み解く古市さんは、堅実な在野の学者ですが、分かりやすく、人として失くしてはならない「ものがたり」を語つてくれるでせう。
堅実と度量の大いさといふと、わたしには小柴さん(ノーベル物理学者)が直ぐに思ひ出されます。何年か前、「新聞赤旗」新年号誌面で上田耕一郎さんと対談しているのを読んでそのひととなりに接したのでした。今もバス停で時々朝の挨拶をしますが、手には杖と帽子以外は何も持たずに、後継者育成の仕事場に向かはれる姿は、とても高名な学者とは見えません。普通の生活者然としてゐられるのがとても魅力です。この小柴さん、吉野裕子さんの近著のなかで座談してゐるのです。科学者が中国古代の陰陽・五行の文筆家との座談です。陰陽・五行とは古代中国での科学だつたのでせう。それが仏教渡来以前か、漢字の渡来前後には日本にやつて来て、それまでの人々の祈りと生活の強力な支へとなりました。
30年ほど前、吉野さんの『蛇』(法政大学出版局)に接した時には衝撃でした。今彼女の全集(12巻)が完成したやうですので、どの巻でも一度読んでみられるやうお勧めします。50歳を過ぎてからの研究といふのも、わたしたちの励みになるといふものです。
わたしは著書でしか接してをりませんが、古市さんは、吉野さんとはやはり師弟の関係で直に古代の胎動や情熱を伝へられているのでせう、吉野さんの話が出たときは、古代の巫女さんの風情をたたへてゐました。
小川 剛
