発行人の部屋

    「想ひ」は貽(おく)られ、貽(のこ)される

発行人/小川剛

  「本」の出版、ほんたうに身近に感じられるやうになりました。お知り合ひのなかにも出版を経験された方が幾人かは居られるのではないでせうか。戦後20年を過ぎる昭和40年頃までは出版は一部のひとたちのものでしたので、それから想へば隔世の感がします。

  だれもが「こと」や「想ひ」を自分の外に向かって表せる、このことは過去に逆行させてはいけないとても大切なことと思ひます。

個人・自主出版が担ふものはこれからもますます大きくなるでせうし、自費・自主出版だからこそそれを押し進める力を持ってゐると思ひます。出版物は筆者がイメージされる以上に広がりを持つものだと、その都度教へられて来ました。

  いま、出版資料を取り寄せてみようかと思はれた時点で、筆者は出版工程の半ばを過ぎたところに立たれてゐます。不安よりかは期待のなかかもしれません。

  以下、ご参考に寄与するところがあれば幸甚です。

杉並けやき出版/小川  剛

2017/4/27

こんな二人で

竹さんは三人兄弟の長男で照さんは七人弟妹の長女。

活発なうへに天衣無縫な照さんは、村の奧いちばんはづれから、むかしの街道筋のちょっと開けた、と呼ばれてゐた隣村に、おおきなお結びをこっそり作ってひとり遠足をした。大きな田圃の秋の穫り入れ、その手伝ひも終はれば親たちも子どもらを解き放す。

隣り村には生菓子屋も本屋もあるらしい。お小遣ひも貰ったばかりだ。

立ち食ひも乙なもの、見られたって知る人もない。

天気は上々と出だした、が、商店の並び辺りに来たら急に雲行きがあやしくなりはじめた。と、見ると、家のなかからあわてて飛び出してきた男のひとが、空を仰ぎ、立てかけてあった板を取込みはじめた。こんな格好をして男のひとを見てゐるのを見られちゃいやだ、と立木の陰にかくれた。でも、あの板は何んにする板なんだろ、あの人は何をしてる人なんだろ。そっと、しかし、しっかりみつめた。トキトキと胸が高鳴った。どうして? 脚が動かない。けど、何をしてるのか見なければと、さう思ってしまった。軒先を歩くふりして覗いてみると、実家にあるやうな桐簞笥の引き出しを出し入れしてゐる。

もういいもう充分だ。外に用事もっともっと、あったやうだが、それもどうでもいい。帰らなくちゃ。

幸ひ通る人はゐない。ふわふわした気持ちが、それでも見つけられないやうに、走った。どう家に帰り着いたのか思ひだせない。

ある日、両親に手をついた。
「父ちゃん母ちゃん、あの人のところにお嫁に行くことにする」

お嫁になんか行きさうにない娘の変化に親は二の句がなかった。母は言った。
「忘れるなよ、武士の子だ。慎ましさが一番。お互ひ尊敬し合ひつづける心をなくさないこと、金でこころを売るやうなことにならないやうに」

また父親は棚倉藩の郷士の子、村長選挙に金を使はなかったとかで敗れたばかり。
「ときには晴れやかなことがやって来るものだ。ありがたい」

両親は娘の安穏な生活を祈った。
「八幡様、家宝の甲冑一式を寄贈します。どうぞ若い二人を見守ってやってください」

その頃竹さんは、妻を亡くした父を残して、ふたたび横須賀の海軍工廠で艦船の内装仕事に駆り出されてゐた。徴用は前後合はせて足掛け三年にもなるが、その間一緒に寝起きした友が甲板で艦兵のリンチで虐殺されるといふ目に合った。

義理の父がそれを知って、工廠の監督責任者に面会を申し入れた。竹は病弱な父の面倒を看なければならない、弟二人は、一人は大陸に、もうひとりは父島で奉仕してゐる、とは言っても、多分、虐殺のことは匂はせる程度にした。そんなことがあってその数ヶ月後竹さんは放免になって古里に帰ってきた。竹さんは後日、物怖ぢしない威厳のある義父だったと述懐した。

竹さんと照さんは夫婦になった。弟ふたりとは連絡もとれない。何もない、かたちばかりの祝宴となった。ただ、照さんは馬に乗ってやって来たし、強制供出のもとではあったが、照さんの実家の裏山から切り出した材で、とりあへずの住み家も造ることになった。照さんにとっては、姑は既になく、舅と夫と三人での生活がはじまった。

東京で修業した竹さんは毎年のやうに東京での家具の品評会で賞をとった。村にたった一軒の家具指しもの屋はそれはそれは休むひまなしだったらう。ひたすら打ち込む竹さんをひと目見て惚れ込んだ照さんだったが、それも無理もない巡り合はせだった。

竹さんはこれといって趣味もない男だが、ただひとつ、活字本が好きだった。文藝書の定期購読を続けてゐた。照さんは父親から、竹さんは仕事以外何の興味もないひとだと聞いてゐたので、この世の中に本なんか読むのが楽しみだなんていふ人がゐることにびっくりした。町場ではそんな生活をしなくちゃならないのだと思った。実家では父親が子ども全員を集めて新聞を読んで聞かせてゐたものだったが。なるほど、男はモノを読むものなり、なのだ。だから寝床で本ぐらゐ読むのは、大目にみてやれ、か。

竹さんの父、舅は男所帯になってから七、八年、なんせ仕事で朝も早よから出かけてしまふ。のに、いつ炊事なんかしてゐたのか、鍋、釜、包丁、雑巾から座布団、寝具に至るまでピカピカしてる。早めに帰って来たときには、照やこっちに坐れをし、とか言はれて照さん、お茶の入れ方講義に足をしびれさすこと度々に渡る。が、そこは要領も容量もたっぷり自信の照さん、これは大変かも、としながらかくれて欠伸し、深・新文化の取り入れに意欲、喜びに心躍った。

弟ふたりの安否はまだ分からない。

それでも男の子ができた。長男誕生、跡継ぎが出来た。大喜び、のあとに男の子は兵隊にとられてしまふ哀しさもあった。が、二年程して戦争は終った。足りない食糧は照ちゃんの実家から裾分けて貰った。やがて戦後になって次男、三男そして待望の女の子を得た。

女の子は超未熟児で生まれた。産婆さんは、もしこの子が無事生き存へたら勲章モノだから救ってみなさい、といってお乳のでる山羊を贈ってくれた。

乳はあふれるほどにでた。何人もの赤ちゃんが飲めるほど。余ってしまふ、が冷蔵庫なんかない。照さんは来る日も来る日も飲みきれないほどの乳を沸かす。離乳食になる、それも食べきれないほどの量をつくる。あるとき竹さんは見かねて、こんなにつくってどうするんだと出来たての鍋をひっくり返した。照さんは泣きに泣いた、さんざん泣いた。そして、また同じやうに、けろっとしてつづけた。どちらも譲らない。いのちを守るのに、この世にもったいないものなんかない。照さんの圧勝となった。

竹さんには、面倒をみなくちゃならない家族が増えつづけた。隣り村から遠くの町から、十五、六歳の子に、手に職をつけさせてやりたいので、弟子にとって欲しいと拝まれた。年ごとにひとり増え、ふたり増えして到頭、都合八人預かった。この、まだ年端もいかない子らを大人にしなければならない。
「なーに、父ちゃん、大丈夫。わたしは大農のむすめ。田圃も畑も借りませう。食べるものぐらゐ作ればどうにかなります。わたしの母ちゃん、小さなからだで、七人の子どもと親の面倒をみてきてるんだから、わたしに出来ないこと、ないです、子どもが八人になったと思へばいいだけのこと」

照さんは多くのものを欲しいと思はない。自分の選んだ男の嫁になったのだから、それで充分、それだけで幸せになれる、成らうと思はないと始まらない。わたしが決めたのだから。

照さんは大雑把、磊落なのに細かい手仕事、縫い物にもゾッコンだ。自分の着物は縫ふは他人の着付けも頼まれれば遠くまでヒョコヒョコでかける。若いとき東京の叔父のところにひとりで遊びにでかけたことが役にたってゐるやうだ。

それは、ちょっと出かけるって、福島から東京といふところ、ちょっとと言って一ヶ月、そりゃ家族ははれたかと大騒動したものだ。昭和一〇年ごろのことだ。

馬には乗ってみよ、人には添ふてみよ、って母ちゃんいつも言ってたから、って、戻って両親に楽しさうに報告したものだ。なんとまぁ。

だから、人の訪ねて来たのに話したりするのが、またそれ以上に聞くのが無上の楽しみなのだ。近所のひともよくそれが分かってる。
「照ちゃん、田圃の畦に男のひとが酔っぱらって寝ちゃってるよ」

どうもこうもない、この寒空に、どこのひとだか分からないけど、凍え死なせる訳にいかない。救急車なんかない、あってもこんな時刻こんな山ん中に来てもらへない。うちで預かる。彼は家のなかに入って目が覚めて、酔ひに任せて延々と喋りはじめ、喋り疲れて敷いた布団に朝までぐっすりお休みになる。どうしてここは、酔っぱらってその辺に眠ってしまふひとが多いんだらう。といふところから始まって、冨山の薬売り、お正月の三河万歳、呑兵衛の教師らがやって来る。

月に一、二度は、子供ら朝起きると、となりに知らないおんぢがイビキを搔いてゐる。弟子を含め男ばかりがうじゃうじゃゐるから、なるほどそれがあるから平気といへば平気なのだ。といって職人は朝が早い。親方の竹さんは酒も煙草も嗜まないから弟子ともども夢の中、熟睡中だ。

昼は遠くから買ひ出しのおばさんお婆さんがひと休み処にお茶を飲んで帰る。竹さんと弟子たちはその間おが屑頭っから被ってどんな人らが来てゐるのも分からない。それもいいかな、営業能力皆無の竹さんの替りに照さんが情報収集とやがての売り上げに役立ってゐるんだから。人に信頼されるのがなによりなこと。それにはこちらが風通しよくして置くが大切なんです。村のなかで地歩が築かれるのにはそんな自然体の努力もまた必要なことだから。

 

村の財閥が竹さんの修業経歴と製品が気に入ったやうで、しばらく前から取引がつづいてゐた。そこは江戸の昔から商ひをしてゐる。それだけに販路の広さ大きさは竹さん夫婦の及ぶところではない。

婚礼用の桐簞笥が喜ばれた。三棹セット総桐簞笥は、材料仕入れから完成まで三ヵ月は最低かかる。  弟子四人と親方竹さんはその間それに就きっきりとなる。心配ごとは天気だけ。納めればみんなを養ふお金が貰へる。今回も図面を引いて説明したら、これでいい、竹さんに任せる、と大喜びされた。仕事は順調に捗る。

しばらくして財閥の家刀自が、もっと納期を早くと言ってきた。弱ったな、まっ、なんとかするわいな。青木先生から、持ち込みのけやき材で作ってほしいと頼まれた、子と孫にも使はせたいといふ文机は、ちょっと時間を貰ふことにすればいいか。

秋が過ぎ、子どもらの冬休みがやってきて、重ね総桐簞笥三棹が仕上がった。

外はここ三、四日積もった雪の上に、今日はまた被さるやうに舞ってゐる。二台のリヤカーで二往復、四~五〇〇㍍運ぶだけだが、路は旧街道とはいへガタボコ、荷崩れなど起こしたらそれこそ大変なことになる。慎重に慎重に木枠を拵え菰をあてがふ。四人の弟子と親方と子どもがひとり付いてくる。照さんはニコニコして、行ってらっしゃいと景気のいい声をあげる。

路は下り坂、押すんじゃねぞ、転ぶんじゃねぞ。納める場所は蔵のなかだが、大廂のところで外枠を取ることにする。

蔵の裸電球のもとで、桐の木肌色にほんのりと融けこんだ透明感ある薄萌葱色の三棹。みんなやり切った顔でほころんでゐる。弟子たちも、今度の正月は、きっと小遣ひが貰へるかもしれない。
「そんなもん、要らなくなった。邪魔だから持ち帰れ。……邪魔だと言ってるんだ」

母屋の勝手口から家刀自の声がする。雪はますます激しくなる。弟子たちも凍えさうだ。真田紐とか外した木枠とか油紙とか菰とか、もう片づけ済んでゐるが、親方の指示がないので身動きできない。親方の声もしない。小半時もしたらうか。親方が勝手口に見えた。そのうしろに恰幅のいい女あるじが立ってゐる。親方は振り向くこともなく静かに歩いてきた。そして、バールあるか、と弟子のひとりに言って、蔵のなかにひとり入った。
「親方! おやかた、……」

年長の弟子が、声を霞ませた。

桐簞笥が表に飛んできた。次からつぎから飛んできた。その向かふには腕組みしてゐた女あるじが口あけて見てゐる。

弟子たちは震へて声もない。と、親方が出てくるや、雪に濡れ横ざまになった三棹を数秒間見つめてゐた、と思ふや、バシバシ壊しはじめた。女あるじが、クフッと息の音をあげた。弟子たちは、震へて、固まって何もできない。親方も弟子たちもひと言も発しない。あっと言ふ間に、木っ端になった。弟子も子どもも顔ぢゅうぐしゃぐしゃになった。
「お前とおまへ、先に帰ってこれが濡れないやうに場所をつくっておけ、な」

と、年少の弟子に言った。
「さ、片づけて帰るぞ」

親方は相変はらず静かに呟いた。

帰ったら、照さんが目と顔を真っ赤に染めてゐた。
「父ちゃん、……よかったね、……お疲れだったでせう、風呂沸いてるから……、柚子、あるだけ入れちゃった」

2017/4/27

こっちに来たら?

「にいちゃん、どうしよう。親父が結婚すると言ひ出して、……」

二〇歳年下の従兄弟の彼トシくんは、間もなく〈知命〉の年齢を迎へる。しなやかな手を止めて鏡のわたしを見て、何かのついでに思ひだしたかのやうにして、恥づかしさうに切り出した。

数ヶ月に一度、都立家政駅近くの彼の美容室に行く。もうすぐ〈古希〉になるわたしには美容室通ひも抵抗がない。叔父家族の元気を知るだけで、わたしも安らかになる。
「朝、予約のお客さんが早めに来たいって言ってたので、バタバタしてたとき、親父が、おい、トシ坊、ちょっと相談なんだが、嫁を貰ふことにした、以上、って」
「以上、って、それだけ?」
「妻も、俺も、すぐにでも出かけなくちゃならなかったし、のみ込みがイマイチで、アハって、あいまいに笑っちゃったんだけど、親父、ヨシヨシ、じゃー、さういふことだから、と」

叔父は幾つになる、と聞けば、もうすぐ〈米寿〉だと言ふ。相手のひとは、と聞けば、〈卒寿〉が二、三年前だったと言ふ。

彼女はむかし学校の先生だった。何年かして、教育委員会の難題を受け容れなかったから辞めざるを得なくなり、美容師になり、やがて独立した。叔父とは、その頃からの知り合ひなのだらう。身寄りのないひとなのだと言ふ。
「ことに、3・11の震災と原発からこっち、体調がおもはしくなくなったやうで」
「もう四年半にもなるな。南相馬の叔母ちゃんも避難先で大変な目に遭ってるしな。トシ坊、お前、その彼女知ってゐたのか」

と聞いたら、一度も、ない、と笑った。まっ、いいわいな。わたしも幸せをもらった気分になった。

 

あれは、上京したての頃だ。東京タワーに朝刊を配り終はって寮で休んでゐるところだった。
「ゴン? ゴーンくん、か? 俺だ、あのな、……恥づかしくって甥っ子に話せることでもないんだが、おれの相談にのってやってくれないか、……じつはな、女房がな、子どもを放ったらかして、カケオチ、……」

いつもの声とちがふ。喉に鉛でも詰まらせた声だ。

夕刊までにはあと五時間ほどある。駆け落ち? なんのことだ。
「叔父さん、自宅? すぐ行きます」

叔父は正座してゐた。

現場に寝泊まり仕事をして帰ってみたらテレビが付けっぱなしで、トシ坊はカラカラの泪を頬っぺにくっつけたまま眠ってゐた。男がまったく知らない奴だったらまだしも、だな、と叔父は気丈に言ってのけた。が、目は腫れて、手にした女房の走り書きはくしゃくしゃと音をたててゐた。 

      

寒い日だった。蛍光灯がいっそう寒々と叔父を蒼くしてゐた。死人の顔だ。
「今の仕事が片付くまでトシ坊のこと頼む」

ガクガクっと頭を下げた。

叔父のアパートの二畳の三角部屋は物置だった。が、当分家賃はゼロ、助かるー。新規バイトは時給八〇円也。近くにはそれぐらゐしか見つからない。
「お父さん、ソコ、そこのお父さん、子どもをこんな時刻に連れ出して、どうしたんです? 坊やに風邪ひかせちゃうでせう」

中野警察署のおまはりが、マスクして外套に手を突っ込んで肩凝りを解すしぐさで寄ってきた。

おまはりに、いちいち釈明するのもたいへんだ、おれだってよくわかってゐないんだから、とりあへず、こんばんはと言っておかうか。

戸惑ってゐると、トシ坊が、
「シンジュク、しんじゅく、パパ」

と、綿入れ半纏を引き摺っては止まり、止まってはまたトシ坊はヨタヨタ年寄りの酔っぱらい様でわたしを従へて先をゆく。

シンジュクって、連れてゆかれたことがあるんだ! 一、二歳の子が分かってるんだ。しかし、なんだー、そんなことあるかー? 分からない、なにか、この子に起きてゐる。

さっきも、ママー! と、大きな寝声で目が覚めて豆電球の下でモゾモゾ動いてゐた。母親はそこにはゐない。わたしが覗き込んだのが分かるらしい。すると、パパは? パパは? とだけで、もうママ、とはひとつも言はない。わたしから目を放さない。そして、また、
「パパ、シンジュク」と、起き上がって歩き出した。

トシ坊、パパの仕事は新宿ばかりとはかぎらないだらう、と今夜も思ってみたのだが、気持ちが落ちつくまで歩けばいい、真夜中に泣かれるよりはと付き従ふ。

もうちょっとだ、もう少し、さうしたら疲れて寝入るから、部屋に負んぶして帰れる。
「お父さん住まゐは、どこ? 名前は?」「おれ? この裏、」「名前は、」「いつ・か・は」「何時かは、さんか、はい。 ところで、……」

おっ、おまはりさん、また何か、えっ、誘拐犯? このオレが? おいおい、この風体を見てみろよ、それに、あんた、歳とってる割りには新米か? 少しは顔を覚へろよ、もう十日も毎夜通ってるんだから、とは声にしなかった。
「トシ坊、家に帰ってチョコレートでも食べようか、おまはりさん、いま何時ごろ?」

おまわりさんは、手袋を捲るやうにして、よく見ろと言はんばかりに腕をつきだした。あらあらこんな時刻⁉ と、逆光で見えもしないのに会釈した。おやすみなさい。いや、おい、おまはり、マジメに仕事しろよな。

青梅街道は都電の杉並線が廃止されて四年にならうか。線路跡がかすかに白っぽく新宿のネオンにむかってゐた。行き交ふ車も、こんな真夜中になんでひっきりなしなんだ。砂埃と排気ガスが混じって鼻ん中がむずがゆい。オリンピックで自動車屋と道路屋が結託したからだ、ホント。

この時間叔父は棟梁だからビルの改装で徹夜突貫中だらう。明日の朝はキチっと帰って来られるんだらうか。

俺もあと四時間もすればバイトにでかけなくちゃ。

叔父は髭そるヒマもなく、二ヶ月間もの仕事を終へて、単身わたしの実家に向かった。そしてトシ坊は、葉桜のころ行った。

叔父の長姉で四人の子どもを育てたわたしの母のテルちゃんと父のタケちゃんは、もうひとりぐらゐなんでもないよと迎へた。
「父ちゃん、天恵々々、子がひとりできたよ。また、子どもと一緒に暮らせるよ」

子どもは親がゐるだけで育つんぢゃない、いっぱいいっぱい、親代わりの人がゐないと育たないんだ。それに山も田圃も水も空気も。だからこっちにおいで。犬もゐるしネコも鼠も、千年けやきにものぼれるぞ。なにより、おれに任せろと笑いをつくるテルちゃんがゐる、そしてなにより無口で家族を支へつづけてきた真っ直ぐな職人のタケ(竹)ちゃんがゐることだから。
「おれらが、お母ちゃん、お父ちゃんだ」

だから、トシ坊は、思ひやりのある子に育つにきまってる。そして、さう育った。

やがて、テルちゃんもタケちゃんも向かうの世界に旅立った。トシ坊も、大学生の長男を筆頭に四人の子育て中だ。人間って、こんなにも素なほに自分を育てられるものなのかと思へるほどに魅力的な男になってゐた。
「さうか、田舎のお墓に嫁さんといっしょに挨拶に行ったか。叔父さん、いい大人になったなぁ」
「オトナ? 親父が? 大人って、もちょっと若いときからじゃなくて?」
「タイジン、と言った方がピッタリかもな。大人は〈礼、楽〉に生きるだ」
「えっ、なに、それ」
「マジメに読んだことがないけど、孔子かな。いや、違ふかな。七十歳を古稀とか、従心(じゅうしん)とか言ふだろ? 叔父さん、八十いくつなんだから、心の欲するところに従って生きていい」
「やりたいことやっちゃう?」
「この場合は、なんだな、矩(のり)を踰(こ)えたって、いいことにしよう」

天命を待つ前の、わづかな時間だ、二人おほらかに過ごして貰はう。

きっと、ふたりで、
「生きてゐたといふしるしがあれば……」
「俺の墓でよければ。息子らが毎年会いに来てくれる。こっちに来たら?」

と、いふことになったのだらう。

親がさうしたいと言った。トシくん、お前が、ウン、分からないけど、分かったと言った。

2017/4/27

つなぎ屋

彼は、四年ばかりまへ、ひょっこり上井草の実家に戻ってきた。十数年前に親は亡くなって家はこの間、空きや然となってゐたが、ときどきは帰ってゐたのだらう。しっかりした商家づくりだから修繕をほどこすほどの傷みもない。電話も電気ガス水道もいつでも使へる。ときどき墨染めの庵主さん、来てゐたといふから、つつましくながら先祖の供養は欠かさなかったやうだ。彼女は、お寺さんの下請けなの、だからアパート住まゐ、と言って楚々と笑ったので、それから彼の敬愛の念が深まった。

帰ってきたとき、長く飯場か刑務所にゐたのか、彼はカラーの〈つなぎ〉姿だった。それからといふもの、ぞっこん〈つなぎ〉から抜け出せない。夏には夏の、冬には冬仕立てを着込んでゐる。二時間二〇〇円で区立の体育館で運動するときもそれでやる。どころか、会社訪問もそのままの姿、らしい。らしい、といふのは同級生らも、近所のだれもが最近の彼の生態が分からないのだ。六十八歳になったはずだから、しこたま年金をうけとって、自適自堕落なことをやってゐるんだらうぐらゐに見られてゐる。雪駄履きでなく、すり減った下駄履きだから、恐くてひとが寄りつかない、ワケでもない。思慮深げでやさしい風貌は学校のときのそのままだし、風に吹かれりゃ流されっぱなしでのほほんとしてゐる。

久々の徹夜明け、疲労を滲ませもせず、閑散とした改札を出た。上井草駅は各駅停車駅、上下線の乗り降り口は別でそれぞれ踏切を渡らなければならない。サラリーマンが出かけるときはほとほと困ってゐる。家に帰るばかりのときは気にならない。彼にとっては駅に立つのはひと月にいち度あるかないかだから、困りもしないが。
「早紀子? サキちゃんだろ? 背中曲ってるぞ。こんなに朝はやく、仕事帰り?」
「先輩? いへ、はい、あの、庵主さんからの……」
「庵主? あぁ、あの尼さんの。ところで先輩はよせ、ひとつ違ひだ」
「はい、でもほんとに、つなぎ着てるんですね。……庵主さんところ、よく行くの?」
「ぅんー、心酔してるっていふか、惚れたから、かな?」
「まぁ、優雅、素敵です。……わたしは、仕事しないといけないので……」
「俺だってさうだ。〈つなぎ屋〉って呼ばれてな」
「それで、つなぎを?」

早紀子が仕事をしなくちゃならない事情は、つなぎ屋はむかしから知ってゐる。ひとり貰はれっ子で家付きまかない婦様だった。長じて、婿養子をとることになり、あなたの子どもが欲しいと言ったら、夫は幼な子どもを二人連れてきた。ウッソー! そんなこと。まるで川柳の世界、笑へてしまひさう。現事実のことだ。小学校に入ったころ夫は子どもを置いて出て行った。子どもは高校をでてそれぞれ自立した。パートの掛け持ちも終はった。以来ひとり住まゐをしてゐる。

つなぎ屋が彼女のことを知って庵主さんに話したのは、あの東電原発惨事の少し前のことだった。相変はらず自死者が毎年三万人を更新中だったし、老いも若きも明日の不安でいっぱいだった。困った人はますます困ってゐる。お前の代はりなんか、この日本中いつでもどこでも、吐き捨てるほどゐるし、つくってゐるんだ、と否応なく言はれて大人も子どもも毎日毎日が落ち着かない。学校の子どもらにも蔓延してゐる。国家よなんとかしろよ。といってやるわけないか。こと、あの原発以来、それまでだってさうだったが、露骨に〈棄民〉を公言して憚らなくなった。税金で養はれてゐる復興庁官僚の水野靖久といふ奴は、ツイッターで暴言を吐くは、慎太郎の息子は、〈金目でしょ〉(金目当て)と国民を愚弄するは、だ。線量二〇ミリシーベルトまでのところは戻れ、戻らない者は援助打ち切りだ! おいおい、一ミリシーベルトがいつ、二〇にしてしまったのだ。こんなことを言ったりやったりする権利、誰が与へたと言ふのだ。いのち? 生活? そんなの自分ひとりで守れ、って⁈

他者(ひと)ごとではない、この俺が困ってゐたのだ。もがいた。原発の下請け孫請け曾孫受けの会社に十何年も、被爆限度もごまかしてゐた。惨事からしばらくは人不足でお金になったが、そこから俺は恐くなって逃げ帰ってきたのだ。責任のがれか、と責めもした。萎へっ放しだった。むかし気力体力のあったころが無性に恋しかった。庵主さんが何も言はずにそんな俺の傍にゐてくれた。

何かできることあると思った。それから俺は〈繋ぎ屋〉となった。気力がよみがへった。
「もしもし、つなぎ屋さん、起きてますか、携帯鳴ってますよ」

傘寿を過ぎたひとり暮らしの人からの件(こと)らしい。
「ツナギヤさん? 庵主さんから、確かなひとが行くからって。いろんなとこが不具合を起こしてね、デイサービスの人が、知り合ひがゐるって言ふんで頼んだんだけど、……」
「その見積、貸してください。おや、その手のキズどうしたの? ふーっ、この窓の開き具合が直ればいいんですよね。これ、この並び全部修理する計算だね。それと、このお墓の見積もりは? えっ、知らない。はい、あとでその業者のところに行ってみますね」

翌々日の夜、庵主さんが、窓修理八万円が一万五千円で解決、お礼に五百円いただいた、と言った。

なんでもかんでも、そっくり入れ替へてしまへと言ふ、こんな不作法いつから始まったのか。まったく、モノも人間も消耗品としか見ない潮流といふか暴力に腹が立つ。簡単に交換できる俺のやうな派遣労務者が意図的に製造されてゐるのが憎たらしい。一握りの者が巨万の富に潤ほへば、そのおこぼれをいただきな、と、ほくそ笑む奴、旗を振る奴、少ないおこぼれをだれよりも多くせしめたいとヘイコラする奴、いつから、どうして、こんなふうになってしまったんだ? オイ、そこの年寄り、俺もだがお前らもだ、なんにもしなかったのは犯罪だ。知りませんでしたでは済まされないんだぞ。

庵主さんどうしますか。 「わたしが生きのびられるには、わたしの周りが健康でやさしく在ることが第一なのです。あなたも、さうなのです。あなたのやうな人があなたの周りにいっぱいゐて生活できてゐることが必要なのです。ささやかでも、身の周りからやるだけです。時間がかかっても、途中で倒れても、いいと思ひませう、ね」
「つなぎさん、公園で今日ものんびり、ですか。」
「おーっ、サキちゃん。いやぁー、お寺さんのお掃除。下請けさんの下請け、午前中かかった」
「それ、わたしも、いっしょにしたいな」
「やってもいいけど、奉仕。タダ」
「じゃ、止める」
「サキちゃんの方はいま終はったの? 時間いろいろなんだ?」
「週に二、三度、決まった人のところってわけじゃないけど、わたしよりずっと年輩の方の、おもにお掃除、とか……。夕方からのときは朝に……」
「……、ウン、高齢者の孤愁は病のモトだから。……キミが顔をみせれば、みんな喜ぶ。行くだけでたいした労力なんか要らない、そんなふうに思った方がいい。まっ、少しぐらい要ったって、その誰にもできない役を担えるって、反対に、代へ難いものがもらへる。対応に迷ったら、庵主さんに」
「ええ、でも、決断はあなたがしなさい、って。でも、自分がおほらかになれる……。わたしのやうなひと、外にもいっぱいゐさうです。隣り、坐ってもいい?」
「何か聞きたさうだな。俺ね、さもしい〈ボウリョク団〉やってる。暴力じゃなくて、〈妨力〉ね。マガヒものだけど。団員は超高齢者。裕福なのは殆どゐない、困窮者ばかりだ。けど明るい。寝たきりだって他者のためにできることがあるんだな。九十三歳のもと陸軍歩兵あがりの人と表敬訪問したりすると、こんなことやってみたいな、なんてこと見つかったりするんだ。寂しいとか悲しいとかは、希望とかのエネルギーを産み出す能力のひとつなんだな。大分わかってきた。哀れまれるのが、気持ちいいときもあるけど、一番人をダメにする。先に生きてる人間って、ひとを元気にできる生きものだわね。だからね、さういふ彼らには心臓が止まるまで闘ってほしいと思ってる。そのあとのことは、俺らがやることだ、まぁ、そんなわけで。まぁ、俺ら、もう充分先人の部類なんだけどな」
「わたしも、いつかそんなふうに、なれるかな」
「無理すんな」
「いま訪問してるひとのなかに、灰になったら、サキ子さんの好きなところに埋めて、って真剣に言ふひとがゐるんです。わたしのところ養父母のお墓もないんです。たとへあってもそれは無理でせう?」
「俺の友だちに、福島の山奥に実家のある人がゐるけど、彼のお寺さんに、合葬の永代供養の卒塔婆が最近造られたらしいよ。檀家の紹介で入れるとか言ってたな。使用料といふのも変か、とても良心的らしい。お寺だけでなく、いろんな自治体でいろんな取り組みがあると思ふな。それも当たっておく必要がありさうだ。死んだあとのことをあれこれ心配するのは生きてゐるうちだけだから。あとのことは心配ない、俺らがゐるって、……な、そんな世間づくり、なかなかいいものだぞ」
「ふふ、こんな話、いま、してゐるの、おかしいですね」
「〈終活〉ばやりだが、そんなもん深刻に思ひつめない方がいいな。もう充分だと思ひなさい、って天の声が聞こえたら、あ、さう、ってあっけらかんと、……、俺だって、まぁその場になってみないと分からないけど、できたらいいな」
「つなぎさんなら出来ると思ふ。それをわたしが見とどけるといふのは?」
「よせよせ、そんなにうまく、ことは運ばれない」
「ないこともない、でせう」
「老老看取りか、それもいい。ちょっとうらやましいが、決まりがいい、かな」
「決まりが? ですか。でも、独りが残りますよね。そのひとのことは?」
「自分で決めな、だろ。俺らがゐるし。その前に、俺らの後釜を育てて置く、ってことかな。そいつらは名前ぐらゐ刻んでくれるかもよ。仏教でば、それさへ〈執着〉と言ふけど。お釈迦さんって八十歳で野垂れ死にしたんだ。それを思へば、人生の終はり方って場所も選ばずあっけらかんが一番相応しい。俺もだんだんそんなふうになってきた」
「庵主さんもをられるし、ね」

聞こえない振りして、またな、馬鹿やってろ、俺もだが、と〈つなぎや〉は片手を中途半端に上げて、重くもないゴミ袋を肩に担いで行った。歩き方がぎこちない。大目に見よう。

公園の端っこの方で、やあ、元気? って誰かに声を掛けてゐる。

早紀子の携帯がうなった。さあ、どうするか。出ないでおかう。今日は、本人留守にしてゐます。

2017/4/27

あっちにもこっちにも

日頃会ふこともない男ばかりの高校の同期とは年に一度、二月に新宿末広亭の近くで会をもってゐる。古稀目前で十八回になる。はじめの頃は会場虎ノ門で会費が一万円ちょっとだったが、このところは年金生活者ばかりになったからか六千円と緊縮になった。それにともなって会話の基調もつつましいものになってきた。現役で仕事をつづけてゐるものは少ない。公務員、会社員がほとんどだったから。

そこに田舎で大きな料亭を経営してゐたといふ同級の引田クンが今年はじめて顔をだした。白い顎ヒゲを蓄へ肩肘をテーブルにのせて様になってゐる。恰幅がいい、のに人なつっこい笑みが変はらない。彼とは、席が隣り同士だった。金持ち喧嘩せずの余裕もあり、スポーツマンでオシャレだった。高校生活をエンジョイできたひとりと見えていた。
「あの3・11からこっちに来て、ずーっとアパート住まゐしてた。やうやく成城に終の棲み家が見つかって、いま妻と二人で……。こんな風になってみると、子どもがゐないことが逆に気軽っていふか、しかし、物の値段が高いね。仕事を見つけなきゃ、……」

と彼は、ごく普通のことのやうに話した。

大学時代その辺にゐたので、どうせ住むなら懐かしいところに、としたやうだ。成城と声がしたので三、四人こちらに向き直った。
「えっ、セイジョウーねぇー、そりゃまた、……」

わたしは行ったことがないのであまりなその感嘆に、なんでそんなに感心するんだ、と不思議がったが、「セイジョウだよ、ゴーくん」との周りからの無言の教示にわが無知を知らされた。

彼は、3・11で店がなくなり、彼の親のことは出なかったが、福島原発の膝元だから生きてる間ぢゅうに帰れるところでなくなった。
「壊れてゐるけど家もある、土地もある、先祖の墓もある、けど行けない」

行かない、行けないの間を揺れてゐた。わたしにも、二〇キロ圏内からいま新潟に疎開してゐる七つちがひの叔母とその子、孫たちがゐる、と話したら、彼は目をしばたたいた。
「さうか、わたしのところは五〇キロ離れてゐるはね、年三回だけだが、帰ることにしてゐる、もう三〇年ぐらゐになるかな」

と話すと、引田クンや五〇年来首都圏に住む友らが一様に、「いいなぁ」と言ふ。
「さうかー? いいなぁか、さうだな、さう言はれりゃさうかもな。でも、自分に呪文をかけないと、すっきり足腰が立たないんだなぁ。情けないことだが」
「歳のせいばかりじゃなささうだね。だいたい、この歳までよくまぁやってきたもんだ、なんて挨拶がはりに言ふけど、自分が歳とったなんて思ふ奴、いないよ。若い連中が、早くあっちに送りたいから言ってるだけよ。仕事も女の分け前も減らすな、ってことかな」
「それもあるか」
「ゴーくんは次男坊だったんでは? それにしては、いつもみんなの話をユッタリひとり聞き役に回ってゐたね。お兄さんが俺たちの先輩にゐるって聞いてゐたけど」
「亡くなった、三〇年ちかくなる。その兄と違ってわたしは小さいときは山猿って言はれて落ち着きのないガキだったやうで」

兄はB型肝炎で亡くなった。親兄弟には肝炎ウイルスなんか持ったものは誰もゐないのにだ。戦後しばらくしてから小学校ではいろんな予防接種が半ば強制的にやられた。一本の注射針で何人もの子らに回し打ちをした。現在こんなことをすれば医者の犯罪行為だ。その犠牲になった。以来、肝臓病患者会の定期刊行物の編集手伝ひをすることになって、今も続いてゐる。

また、この兄の代りに隔月、ときに毎月両親を見舞ふことにもなった。兄が、親を頼むなと言ったのに、分かったと応へてからは自分を必要とする範囲が広がったことに喜びに似たものが生まれた。それがわたしのその後三〇年の推力となった、やうに思ひ込めた。ま、推力と言へば必死な姿を印象づけるが、そうでもない。なんとかなるか、なんともならなければ、それはそれで仕方がない。ので、六体もってそこでの一ときを過ごせばいいかな、といふ次第だ。
「東京で、それも次男坊に生まれたかった、なんて、大学のころよく思った。俺らの地方の風土って、外とちがふ? そんなことある訳ないよね。でもそこにある深くて、そのくせ暖ったかい磁場みたいなものに曳きづられて来た。いまも断ち切れないものがドーンとあって。別に、あって困るってわけじゃないけど。自分で決めて責任をとるなんてシビアなことを考へなくても生活できたのは甘いって言はれればそれまでなんだけど、暮らし易かった。それが、突然他人(と今はおもってゐる)の行政が、お前ら出て行け、と命令されたのには仰天したよ。怒り狂ったけど、その感情を抑へるには、お前らの命令なんかで出て行くんじゃない、俺の意思で出て行くのだ、と。何か変な気持ちだった。若ければなんだな、でも先の短い俺らとその上は、放射能ぐらゐなんだっての、といふ思ひだった」

と引田クンはコロコロと喋った。そのもの言ひに、少しまへに亡くなった井上ひさしさんの、難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことをおもしろく、(いや軽く、だったか?)と言ったのを彼に感じてゐた。
「地方出の長男で、こんな知り合ひがある」

ふと、わたしは、椅子を横座りした彼の言に知り合ひのことが浮かんだ。

その人は山ちゃんといって、同じ区内の、ここ二〇年来の付き合ひで、わたしより五、六歳上なのだが、わたしの毎度の田舎参りに、「それはそれは」と同情と哀れみを半ば交へた顔つきで俯むく。

十年ちょっとまへ停年退職したこの山ちゃん、大学を出て政府の金融関係の外郭団体に就職した。その折り、札幌生まれの長男なのだが、一切を弟に譲った。ので田舎での責任とか関係とかに煩はされない、親の墓参りなど一度もしたことがないと実に軽やかに笑った。わたしの倍もあらうかの重い風姿なのでその言や軽くはない。
「これからはそんなもんよ。しかし孫との付き合ひは金はかかるは、疲れるは、だよ」と、アッサリ然とする。それだけに人間自然の覚悟が匂ってゐる。趣味の囲碁マージャンもなほ健在で、かたはら週一の百人一首の読み手のボランティアもこなしたり、ひとり地域探訪に忙しい。酒も煙草もやらない。だから赤提灯など呑む席などにはつき合はない。極辛大好き、極辛カレー大好き、けど茗荷ニンニクラッキョウ福神漬け大嫌い。

その彼の定年時を境に、それまで働きに出たことのない細君から、「今まで外で仕事をしたかったのだけど、できなかったので、これからやりたいことがあるので、ヨロシク」と言はれ、「いいよ」と言ったから、細君は早朝から夜まで家を空ける。彼は朝昼晩ひとりご飯を食べる。
「わたしが妻子の面倒をみることは出来たが、これから妻や子がわたしの面倒を見るなんてこと、無理でせう。だから期待しない。悔いなき活動をして過ごす。それしかない。空き時間は完全フリー。で、時間たっぷり十年経過、です」と屈託もない。いまふうな大度の大人といふべきか。

だから、まだ日本海も見たことがないと言ふわたしに、えっ、と不思議さうな声をあげ、耳の裏をカリカリした。
「ガラパゴス、いやいい意味、独自深化、情熱持続……いいねぇ。各地漫遊の体験、さう多くなさそうだから、無くなるものの量も少なくて済むね。モノなど何もあとに残さない、残せない人生としては理想を行ってる、と思へばいいです」

……こんな話をじっと聞いてゐた引田クン、大きくうなづき、両腕を中途半端に挙げ、「バ・ン・ザ・イ」をした。悲しさうでもあり、嬉しさうでもあった。が、その意味するところは言はなかったし、聞かなかった。

ことしの旧盆、いまも住むひとのない家や先祖の墓もあることだし、墓石には戒名と俗名、没年それに享年が刻まれてゐるのがなんとも奥ゆかしいし、修行〳〵と銘打って飄々と帰省する。……といふその割りには整理もままならず十年以上もそのままで何とも歯がゆい。遺影たちが頭上で、来たか、と言ってる。

さぁー、着きましたよ、と奧の方に向かって挨拶をする。歳かなぁ、ちょいと坐らせてもらってから、それからにさせてもらひますよ、と背向(そが)ひの仏壇につぶやく。父親に言ってはならぬ、と今になって思ふ、ひと言に慚愧後悔を滲ませながらである。

さぁてと、ベッド周りの掃除も済んだ、とりあへずお寺に参らう。
「こんにちは、遅くなりましたが、またやって来ました。お世話になってます。和尚さん、お元気さうですね」

和尚は、わたしが追ひ込み仕事で仕事着のまま来るのが楽しみだと言ふ。
「えぇ、よう来られました。あなたも一見、元気さうに見えますよ」
「お寺、いつも静かで、」
「ん⁈ さう、でもお盆だから。一昨日はそれでも賑やかでした。それと春、秋のお彼岸ぐらゐはね。いつもは、じじばばだけでね。原発から五〇キロといっても、子どものゐる親は不安でせう。自主避難といひますか、さういふ子らもゐるやうです。村から元気な声が聞こえなくなってゆくのを見るのは、何ともね。……じゃ、ヒマついでにまた心経でもひとつご一緒に」

半分眠りながらも合はせた。つもりが、一瞬寝入ったやうだ。和尚が湯飲みの用意をしてゐる。
「あなたのお祖父さんやお父さんお母さんには大変お世話になったのです、言葉に言ひ尽くせないほどです。なのにあなたのことでは何にもお役に立てなかった……」

墓参のたびに和尚は繰りかへす、五〇年も前のことなのに。

村を離れたのは十九の歳だった。村の権勢家たちは、厄介な奴としたわたしを追ひ出すのに親の家業を圧迫することから始めた。戦前からの上下の縛りによる利得に支障を来たしてはならない。よくある話である。それに原子力発電所の誘致は村の未来を約束するものと信じてゐたから、このことで反対する者がゐてはならなかった。ましてや高校生の分際で反対の集まりになんか首をだすなんて生意気なことをされては困る。今まさに密かにひそかに進めはじめてゐるところなのに。高校生が政治活動なんかで風紀を乱しては他の学生の将来に傷がつく。この際、学校当局に処分をして貰はう。

ところが、担任の日本史教師が、退学処分だって? あまりにも馬鹿げてる! そんなもの政治活動などと言へるもんじゃない、と処分減殺に奔走した。
「ところでお前さん、明日から一週間、授業に来るな。(処分は)それだけにしたから。家には内緒にして図書室にでも居ろ、な。しかし、いい勉強をしたなぁ。次男坊は自由がいい。それにしても、今後は、お前さんにやってたノートの添削もやれない、なんて言った先輩同僚、そんなのもゐるってこと、知っただけでもお前さんの財産になるってことよ、な」

と自分のことのやうに笑った。そんなことがあっての後ち一〇年を待たずに彼は他界する。

たったひとりで、ひとりの生徒のために闘った教師がゐたのだった。

次男坊だし、いづれ家も出ることだから、それもいいかも、身軽に外の世間でも見てやらう、ひとりぐらゐ食へないこともなからう。
「和尚さん、それはそれでよかったんです。それより、人間って自分さへ語りきれないもんですね。伝へきってみたいものだけど。親にもことばにしなかったもの・ことが詰まってゐたんでせうね」
「十中八九は、自分で自分のことをことばにしてません、多分。子どもが親への感謝があるとすれば、外は何にもしなくていいとして、ただ、親の語りきれなかったものを代はりに見つけて語ること、さうでなくちゃ、……」

和尚は座卓の下から四合壜を引き寄せ二つの湯飲みに酒を注いだ。ケチ、半分しか淹れない。和尚の飲み方が堂に入ってゐない。

あなたのお祖父さんの若いころのことだと思ふ、と頰肘をつきながら話した。
「先代の和尚、わたしの祖父の話になりますが、……」

──ある女中(昔は女性の敬称でした)が修理中の本堂の前にじっと座り込んでゐた。身おもだと一見して分かった。年の頃は二〇代に見えた。ここでは聞いたこともない武家ことばの、まるで頻伽(びんが)の声のひとだった。それがそのときは、よほど腹を空かしてゐたんだらう、庫裡の煙の方に仰向けの体を捻って口をもぐもぐさせてゐた。そのお腹の子がお前の祖母で、ここで生まれたのだ。行くところがないと言ふので、雨洩るこの寺にゐてもらった。……そのお女中が大黒(梵妻)さんになり、わたしの子がほしいと言ってくれた。それはそれは素直に喜んだ。わたしにも子ができる、と。その一、二年は夢のやうな日々だった。女(ひと)がこんなにも愛しいものだと還暦過ぎて初めて知ったものだ。晩年のあの一休禅師の気持ちに少しばかり近づけた気がした。独りこの山中の寺に来て二〇数年にもなってゐた。──
「しかし六〇歳過ぎた祖父の実の、その子どもは生まれて間もなく亡くなりました。それを追ふやうにしてその母も。そしてその後、わたしの母も恋をします。相手は軍人で大陸に行ったまま帰ってきませんでした。毎日のお勤めなどには祖父と母が側にいつもゐました。朝のお勤めのあとに祖父が十歳のわたしに話したことです。」

この先代和尚がこの村にやって来たのは、言ってみれば破戒僧扱ひされてゐたのだが、それでもお坊さんとして何か取り得があったのだらう、荒れ寺を再興してみろと手をさしのべてくれた元のお寺の住職のお陰だった。来てみるとお寺の体裁どころじゃなかった。戊申の戦争では反薩長だったものだから徹底して打ち壊されたのだらう。それにまた、薩長に同調する目端の利く者たちがゐたことが、その後の村人たち互ひの信頼と尊敬心を傷つけた。そんなところからの復興を願った和尚だった。
「けれどひとりの力ではどうにもなりません。檀徒の醵金はさうですが、それだけでは寺は再建されない。腕も人間的にも信頼される職人さんが必要なのです。それで引っ張り出したのが、あなたのお祖父(ぢい)さんの豊松さんだったのです」

豊松は、いまのいわき平に生まれ、日露戦争で生き残り、好間郷今新田(いまにひだ)の豪農の娘と左官の仕事中に恋仲になり、駆け落ち同然にして八里も山奥に来た。その娘ヤソは、いまも、平の町外れに〈愛谷(あいや)の堰〉として残る、その堰を拵えた愛谷備前といふ殿様の流れだから、お姫様と呼ばれてゐた。彼女との出来事はいろいろと悶着があっただらうことは想像がつく。ただそこは人慣れた商売の坊主がゐる。ふたりの間を掛け持った。先代和尚の元のお寺の修復仕事で並々ならぬ縁があったのだらう。
「あなたのお祖父さん、細い体つきで寡黙な人でした。きつい仕事がらなのに品がありました。お茶やお花の作法を父はあなたのお祖父さんから受けたと言ってましたので。当時の職人さんはそれも修行のひとつだったのです。ヤソお祖母さんは若くして亡くなりましたね。二・二六事件の頃で……。ところで、あれも低俗なものでした、利害の絡んだポスト争ひなんですから。それはともかくとして、当時は苦しみや憎しみを大陸で吐き出せって言ふふうでしたし、差別は天与の喜びだなんて連中が威張ってましたから、余所者に見られたご夫婦にはきつかったでせうね。それだけなほのことお二人はお互ひ優しく明るくされてました。祈りに似たものをお二人は持ってゐたやうに思ひます、生活、それは大変だったはずです」
「さうですか、祖父さんたち、なかなかどうして、ですね。人生に何かまだ期待できるかと問ふのではなくて、むしろ人生が何をわたしたちに期待してゐるかに答へることだ、と言った人がゐます、うろ覚へですが。しかしまぁ、それをその昔にですか、……」

わたしは荷車を曳いて山路をゆく二人を想った。それで、分からないからこそワクワクするほどに面白い、二人にはそんな台詞が似合ってると思った。
「あなたのお父さんが生まれ、その下に二人のこれも男の子ができました。両親に似て物静かな三人でした。みんないい字を書いて、長男の竹さんなどは八幡様の奉納幟に大書したことがあります。三人のこと、とくに次男の證悟さんのその後の悲話を想ひだしますと、ゆうに本一冊では表しきれません……」
「その叔父のことかすかに憶へてます。厚い扉越しに、幽霊と話すみたいに抑へた声を聞いたことがあって、」
「一〇〇年の戦争に雪崩れ込んだ時代でした。そして今また、愚かなことです……。あなたが書いておかなくちゃね。身の周りの確かなことを、です」

次男のその叔父は、日中戦争のころ大陸で何かの秘密を背負って狂人にされ、戦後しばらくを郡山の脳病院である筋の監視教導下におかれ廃人になって戻ってきた。三、四年も一緒にゐたらうか。男の小学校卒業の梅匂ふなか死んだ。誰も来ない葬式だった。
「つい最近、三月のお彼岸を過ぎたころ、あなたのお家のお墓はどこですか、と七〇代ぐらゐの女の方が見えました。変ってゐないお家や寺の周りを巡って来たと言って、懐かしさうでした。あなたの、手控へがありますのであなたの名刺、差し上げました」
「! …………」
「さう、これもお伝へしておきます。叔父さん、戦地に行くまへ、心交はした人がゐたのです。その人、ずーっと半坐を分けて待ってゐたのです。ご両親もご存知でした。もう一〇何年かにもなりますか、亡くなりましたが。それまで、やはり春だけですが、彼岸が終った時分に毎年お墓にお参りに来てました、ひっそりと。名前は聞かないでください、その方との約束で。むかし代用教員をしてましてね、歳いってから後妻さんになりました、その方」

和尚が饒舌だとは知らなかった。般若湯のせいばかりではない。歳も歳、訪ね来る人に語り置きたいことがあるのだ。わたしの若いときには、和尚は、ただうんうんと聞いてゐるばかりで、何か言ってよ、と言へば、さうね、そんなもんでいいでせう、なんてことしか返って来ない。暇乞ひするときには、体に気をつけるんですよと決まって言ふ。和尚が自分のことを話したのを聞いたことがない。今度はじめてチラッと自分を語った。年若いある学者が、自分とは行為・関係・役割の連続体と言ってたが、和尚は、自分の身近にある人、モノを写しとって伝へることが自分の役割だと言ってゐる、多分。髪の毛のない和尚のアタマは柔らかく光ってゐて、拙僧は媒体でいいんです、と言はんばかりににこやかに体を揺する。
「ちょっと、こんな句が……」

と言ってボールペンで書かれた作句を見せた。
  四大五縕(しだいごうん)
  土持てをれば
  こりゃこれよ
「和尚さん、こりゃ、〈公案〉?」
「ハハ、いいえ、残り少ない今のわたし、いま在る、それだけで自分も大したものだと感心してゐるんです。けれども心残りが、執着心ですね、いままでの人に会ってひと言伝へたいのですが、叶ひさうにありません」
「女のひとだったりして?」
「よく分かりましたね、さうなんです、と言ってみたいものですね」

と外に目をやりながら湯呑みの残りをすすった。
「あーあ、お墓の掃除、先に済ましてくるのを忘れてゐました」

2017/4/27

真夏の編み棒

昭和三十五年、カヲルは中学三年で、放課後は裁縫室か割烹室によくゐた。中学一年になったばかりのわたしは、卓球部を創りたいといふ三年の中村クンと、床がコンクリートの割烹室を練習室にしたいと狙ってゐた。中村クンが、「こいつは、カヲル」と、カヲルの襟首を摑んだそのときから、わたしにとっても、「カヲル」になった。一年前の小学校卒業の季節までは「カヲルさん」だったし、そのときまでは、カヲルは色黒で痩せて小さくて目が細く白い歯を見たことがなかった。だのに、この日のカヲルはちょっと大人びて微笑んでみせた。
「カヲルは美人だ」と言ったら、一週間睨まれた。

カヲルが、遠いクニから、海から二〇キロも山中に入ったわが村に引っ越してきたのは敗戦後ほどない頃だったらしい。ナガサキ被爆のとき一歳、と聞いた。カヲルが小学生のときはよく村の療養所にゐた。勉強嫌い、編み物好き、と二本の棒を手にしてゐた。遠い親戚の七之助校長が療養中、カヲルといっしょで、わたしのことを話した。あいつは山猿、孫〈悟空〉みたいなヤツ、とでも言ったか。それからカヲルはわたしをゴーんクンと呼んだ。

中学校はといふ山城の裾を切り開いて在った。夕方は映画館の呼び込みの流行歌が拡声器で流れた。小さな野掘りの炭鉱が二つ三つあった。朝鮮半島から常磐炭鉱に連れて来られて日本で家族ができた、その子どもの、わたしより四学年ほど下級だったハジメくんたちとも、よく学校隣りのお寺の墓場で遊んだ。母とその家族が仲好しだったからだ。

中学の全校生徒数は三〇〇人ぐらゐだった。カヲルの学年は高校進学より就職する子の方が多かった。

カヲルは、卒業後は愛知の紡績工場に就職するので受験勉強もしなくていいから、と卓球で遊んでるわれわれ部員にお結びや味噌汁をつくった。 「米、持ってこなくちゃな」
「いい、相良先生が用意してくれてるから」

カヲルの〈お結び〉と縫ひ雑巾が、職員室に着くと、〈安保〉で青筋たてて口論してゐる先生たちは休戦してカヲルを想った。

カヲルは卓球をするわけでもないのに夏休みも休まず学校に来た。来てはを採りに出たり、裁縫室で何かしたりしてゐた。
「卓球部、せっかく創ったんだから、夏休みも練習したら。それに、先輩のフミロウさんが高校で卓球してるって。教へてもらへば」

無口のカヲルが先輩におづおづしながら頼んでくれたのだった。

ある日、裁縫室を覗くと、カヲルはわたしに気づきもせずに、ボーッと東の窓下の校庭を見てゐた。手にしてゐる二本の棒からは短い、編み途中の毛糸が垂れてゐた。カヲル、って呼んだら急に泣いた。カヲルはいい薫りがした。

秋が来て、カヲルが来なくなった。

冬休み明けの卒業まぢかになってから、カヲルが学校に来た。
「これ、もってて」と、二本の編み棒を出し、一本をわたしの手に握らせた。
「ひとのこと、自分のことのやうに、ゴーん君は思ってくれてた……」
「……ウン、……」と顔をあげたら、カヲルがわたしの首にキュキュッと襟巻きを巻いた。巻きながらカヲルはまた泣いた。ワケの分かんないヤツ。

卒業式にカヲルはゐなかった。先生の言ふのには、愛知の会社からの呼び出しがあった、と。その後音信はない。

それから半世紀以上も経ち、わたしもそこそこの高齢者だ。相変はらずひとり仕事をもってゐる。

今日はことに暑い。七月も月末近い、急ぎまとめなければならない文案がある。と、早めに地下鉄荻窪駅に来た。さうか、この時間帯は通勤ラッシュだ。

おっと、危ないなぁ。急ぎホームに雪崩打つのは若者壮年ばかりのはずだ、と思へば、違ふ、私より年輩者が二、三割以上もゐる。その二、三割がわたしをどんどん追ひ越してゆく。さすがにいつもの時間とちがひ、トレッキング姿の老夫婦やスポーツ姿の老集団は見かけない。

背中で、流れに乗って猛進せよと言はれてゐる気がする。お先へどうぞ、私は二つ見送ってから坐って行かう。

最前列にゐたのに、八人掛けのドア直近の席は、わたしより一回り年輩に見える痩せた老女に占拠された。スーツ姿にキリリと固めて他者を寄せ付けない凛々しさだ。新宿に行くのかな、いや丸の内かな、わたしは三ッ目で降りるから、まぁいいや、とその隣りにした。

坐るや、その老女、遠近両用で日経新聞をすでに覗き込んでゐる。右隣は薄髪をしっかり乗せた、多分真宗系の坊さん、マックのパソコンを起動してゐる。さらにその並びの向かうは御多分に洩れず携帯端末機を睨んでゐる。五〇代に三〇代か。ひと昔前なら、本を読めば、前の席のひとと目を合はせることもないし、年寄りが来ても知らん振りして坐ってゐられるからと、とにかく紙の何かを読むのが目立ったものだ。

ドアが閉まった。

その付近で何か悶着が発生か、女の声に被さって男の、関係ないだらう、と圧し殺した声がした。波寄せるやうに声の発生源に乗客の上体が動いた。押されて女が何か落としたやうだ。あなたが押したんだから、拾ひなさいよ。

わたしの前方のドア寄りの席に髪を後ろに束ねた女の子がゐる。

布ぶくろをあけ、二本の棒で毛糸を編みはじめた。この酷暑に、冬ものの毛糸⁈ 

周辺の乗客の肩、肩が、その子に向きなほった。

なんで? いま? 

お互ひに顔を見合ひ、しばらくして、うなづく気配が流れた。ホーッと息を吐いた。車内が和らぎ落ち着き始めた。

その老女もわたしの前に顔を押し出し、女の子を見てゆっくり新聞を畳んだ。眼鏡の下から目を拭ひながらわたしにチラと目礼した。受けてわたしも鼻の奥がツンとした。

次の南阿佐ヶ谷駅からさらに混み合った。わたしからはその子が見えなくなったけど、涼しい雰囲気をつくって編みつづけてゐるだらう。

カヲル、若いカヲルがゐたよ。

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